02 桜の坂道

 ふとんを蹴散らして、ベッドからばねのように起き上がる。手を伸ばして耳元でうるさく鳴っていたスマートフォンのアラームを切った。


 階下で「遅刻するわよ」と叫ぶ母親に「もう起きた!」と投げ返す。

 制服に慌てて袖を通し、冷蔵庫から野菜ジュースのパックを掴んで朝食に代える。洗面所で歯磨きついでにショートカットの髪についた寝ぐせを必死で直してから、あわてて家を出た。


 走らないと間に合わないだろうか、と思ったが早歩きで済みそうだ。

 満開の桜並木の下を薄紅の雨に降られながら歩くのは気持ちがいい。咲綾と同じセーラー服を着た生徒たちが前を歩いているのを見てほっとした。


 桜世町には二つの私立学校がある。

 ひとつは咲綾が通っている鷺宮学院――伝統と格式を重んじる由緒正しい女子校である。自慢は明治初期からある古びた講堂で、何度も手は入れられてはいるが当時の趣を残したレトロな洋風建築として文化財にも指定されているらしい。


 中高一貫校で、咲綾は中等部の三年生に在籍している。本来ならば受験の年ではあるが、よほど素行が悪くなければ高等部への進学は出来るので、他のクラスメイト同様にさほど緊張感はなく過ごしている。


 そのとき華やかな笑い声と共に、自転車が咲綾のすぐそばを走っていく。黒のブレザー姿の少年たちがふたり並んで桜並木を駆け抜けていった。それを追うように咲綾もなだらかな坂を上り始めた。


 もうひとつが、伍菱高校――先ほどの少年たちはそこの生徒だろう。

 五年ほど前にできたばかりの学校ではあるものの、レベルの高い教員を配置し、最新鋭の設備をそろえたことで人気を博し、国内最高峰の大学への進学者はあっさり県内一位の座を恣にした。

 学費は高いが進学率も高い、と入学希望者が後を絶たない男子校である。

 その二つの学校は桜世城のふもと、丘の下にとなり合わせに建っているのだった。


「咲綾ちゃん」


 咲綾が振り返ると、自転車にまたがった少女が咲綾の隣に並んだ。ゆるくうねった長い黒髪が風に靡く。


「おはよー、智花ちゃん」


 勢いよく手を振ると、智花は微かに頬を染めてはにかむように微笑んだ。思わずぎゅっと抱き着きたくなったが、さほど予鈴まで時間が残されていないことを思い出してぐっと堪えた。


 智花の家は桜世町でも有名な資産家なうえ、鷺宮学院のパンフレットに写真が載るほどの優等生である。ただそれを鼻にかけたところがまったくなく、ふんわりとした物腰に下級生のファンも多かった。共働きの両親と猫一匹、というごく普通の家庭に育った智花とは大違いだが、入学式の日に席が隣になったときから自然と仲良くなった。こんな言葉を使うのはちょっと照れくさいのだけれど、咲綾のたったひとりの親友だ。


 智花は律義に自転車を押しながら咲綾と並んで歩いていく。ふあ、と大きな口を開けて欠伸をした咲綾を見て「あら」と小首を傾げた。


「咲綾ちゃん、お眠なの?」

「うぅーん……そうかも。何か変な夢見ちゃって」


 もう既に記憶が薄れつつあるが、なんだか怖い夢だった気がする。でも所詮はただの夢だ、現実に起きた話ではない。

 苦笑を浮かべ、智花に向き合ったところでカーンと高い音が鳴った。

 鷺宮学院名物、予鈴のひとつ前に鳴らされる鐘楼の鐘である。早く校門に入りなさい、と促す音が無情に鳴り響いている。


「智花ちゃん、先行って!」

「でも……」

「わたしはいいから、ここから走るよ」


 申し訳なさそうに自転車をこぎ始めた智花を見ながら、ペースを上げて坂を上り始める。高台になんて学校をつくらないでほしい、そんなふうに遥か先で咲綾を見下ろす学校を睨んで走り始めようとしたときだった。


 ことり、と背後で何かが落ちる音が聞こえてドキリとした。

 思わずファスナーが締まったままのスクールバッグを確認して、気付く。


 これとおなじことを、わたしはつい最近したような気がする――振り返っては駄目、という無意識の警告に咲綾は従おうとした、が。


「落としたよ」


 声をかけられて反射的に振り向くと、すぐ後ろに立っていたのはすらりと背の高い青年だった。


 さらりと長い前髪の間から切れ長の眸が覗いている。思わずどきりとしてしまうほどに端正な顔立ちだった。年齢は咲綾より年上のはず。その証拠に伍菱高校の制服である黒のジャケットを着ている。


「え……あっ」

「はい、どうぞ」


 どぎまぎしているあいだに、拾い上げたと思しきものが彼の手から咲綾の手に移される。

 じゃあね、と軽やかに坂を上っていく細身の背中をぼうっと見送っていると、ごおん、と今度こそ本当に予鈴が鳴った。


「やばっ」


 言いながら掌の中にすっぽりと納まったそれをちらりと見遣る。が、気にしている余裕もなく握りしめて力強く地面を蹴って走り出す。はしたない、と生徒指導の教師に注意されながらも教室に駆け込んだおかげで遅刻は免れた。


 あの青年に手渡された見覚えのない小さな巾着――なめらかなベルベットの生地で作られたそれを、咲綾は朝のホームルーム直前に開いた。

 中に入っていたのは、赤く塗られた鈴のようなものだった。

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