第19話――亜耶香side――
亜耶香は恐怖していた。
覚悟はしていた。あの日、村を襲った鬼狩り――『死神』と再会することを。
だが、今思えば、その覚悟はちっぽけなものだった。
廃病院の敷地で死神の姿を目にした途端、膝が震えた。あの日とは違って、死神は顔の右半分を覆うような仮面は着けていなかったし、背丈も伸びて少年から青年へと変わっていたけれど、あの空虚な眼差しを忘れるはずがない。間違いなく村を襲った鬼狩りと同一人物だった。
この二週間。復讐を誓う仲間――拓哉や唯菜と触れ合い、彼らの祖父に鍛えてもらった。そうして身も心も強くなったと思っていた。
だけど、そんなことはなかったのだ。
――鬼狩りに殺されるかもしれないってことは、ちゃんと理解しています。
先日拓哉に言った言葉が思い出されて、亜耶香は自嘲した。
「……殺される覚悟なんて、全然できていなかった……」
亜耶香は下を向いて、ぽつりと呟く。
母の仇を討つなんて、臆病な私には最初から無理だったのだ。
大人しく、これまで通りアパートとスーパーを往復し、家で何もせず時間が流れるのをただ待っていればよかったのだ。
そうすれば、こんな惨めな気持ちにならずに済んだのに……。
「――さて……これで邪魔者はいなくなったな」
亜耶香はその声で顔を上げた。
「――っ!」
拓哉と唯菜が地面に倒れ伏していた。
二人とも、立とうともがいている。どうやら命に別状はないようだ。亜耶香は安堵の息を吐くが、近づいてくる死神に気づいて、再び身を震わせた。
死神は亜耶香の前で足を止めると、大鎌を振りかぶった。
「終わりだ」
亜耶香は恐怖で目をつむった。
大鎌で斬られるのを想像して、歯がカチカチと鳴った。
体が斬られたとき、どんな音がするのだろう。
グシャッ? それとも、グチャッ?
亜耶香はそんなことを考えた。
けれど――、
キンッ!
耳を打ったのは、金属同士がぶつかったような甲高い音。
亜耶香は恐る恐る目を開けた。
「――ゆ、唯菜さん!?」
亜耶香の目の前に、唯菜の背中があった。
唯菜は右手で刀を持ち、大鎌の上段斬りを受け止めていた。
「――か、肩が!」
唯菜の左肩に大鎌の刃の先がめり込んでいる。大鎌の勢いを刀で完全に殺すことができなかったのだろう。
「――ぐっ」
左肩が痛むのか、唯菜が小さな呻き声を漏らす。
「甘いな」
「――がぁ!」
死神が大鎌に力を込めたのか、大鎌の先が唯菜の肩に深く刺さった。
「ゆ、唯菜さん! 私のことはいいですから!」
唯菜が今の態勢を固持しているのは、背後にいる亜耶香を守るためだ。亜耶香のことを気にしなければ、距離をとって仕切り直すこともできるはずだ。
「亜耶香は黙ってて!」
唯菜は引くつもりがないようだ。大鎌の刺さった左肩から血が滲み、広がっていく。
「どう、して……」
どうして唯菜は亜耶香のためにここまでしてくれるのか。
このままだと左肩を斬られ、左腕のない不自由な生活を一生送ることになるかもしれないのに……。
亜耶香は今まで唯菜に嫌われていると思っていた。日頃から唯菜の態度はきつかったし、拓哉と亜耶香が話していると、鋭い目つきを向けられることもよくあった。
そう。間違いなく唯菜は亜耶香に対してマイナスの感情を持っていたはずだ。
それなのに、なぜ唯菜は助けてくれるのか……。
「あたしにも、分かんない……! だけど、体が勝手に動いたの! ……自分以外、どうでもいいと思ってたはずなのに……。なんでこんなバカなことしてるんだろ、あたし……」
唯菜はフッと息を漏らしてから、大きな声で言った。
「絶対に亜耶香は殺させない! ――やあぁあああ!」
唯菜の刀が死神の大鎌をわずかに押し戻した。
だけど、依然として鍔迫り合いは続いていて、唯菜の左肩には大鎌の刃がめり込んでいる。
「やあぁあああ!」
それでも唯菜は雄叫びを上げ、死神と対峙し続けている。
ふと亜耶香は、あの日の母の言葉を思い出した。
――逃げなさい!
――さあ行って! 遠く、できるだけ遠くへ走りなさい! 絶対に振り返っちゃダメよ!
母は、亜耶香を守るために、鬼狩りと戦うことを選んだ。
逃げる直前に見た母の背は、今でも脳裏に焼き付いている。
その残像が、唯菜の背に重なって見えた。
……また、守られるのか。
……あの日と同じように。
……そして、また失うのか?
唯菜たちと過ごした時間は、たったの二週間。
生きてきた十三年間を考えれば、微々たる時間だ。
だけど、この二週間は、かけがえのない時間だった。
村を去ってから初めてできた仲間が、拓哉と唯菜だった。美絵は色々と優しくしてくれたけれど、仲間というよりも保護者って感じだったから、ノーカンだ。
毎日のように稽古をした。体を動かすのはそれほど得意じゃなかったけれど、二人の足手纏いにはなりたくなかったから一所懸命に取り組んだ。指導者である彼らの祖父は、ときどき厳しいことを言うこともあったけれど、たいていは優しく教えてくれた。亜耶香が途中で膝を折ることなく二週間も稽古を続けられたのは、祖父の指導なくしてあり得なかった。
唯菜たちの家の庭でやった花火も楽しかった。話には聞いたことがあったけれど、実際に花火を見て、その美しさに感動した。二人に誘われて、花火を両手いっぱいに持って振り回すのも、ドキドキして楽しかった。
「無駄だ。お前の力では私に勝てない」
「うるさぁあああい!」
唯菜が吠える。
…………嫌だ。
もう、失うのはごめんだ。
大切なものは、自分の力で守ってみせる――!
亜耶香は立ち上がって死神に一瞬で近づくと、腹部に掌底を叩き込もうとした。
けれど、死神の回避行動は早く、バックステップで掌底を躱されてしまう。
死神と亜耶香たちの間に、二十メートルほどの距離ができる。
「亜耶香!?」
唯菜がそばで目を丸くしている。
亜耶香は彼女に頭を下げた。
「ご、ご迷惑をかけてすみませんでした! もう大丈夫です! 戦えます!」
「そう……」
唯菜が一瞬笑ったように見えたが、亜耶香の気のせいだったかもしれない。
「じゃあ、さっさと二人であいつを倒すよ!」
「は、はい!」
亜耶香たちは戦いの構えをとる。
「俺も忘れるなよ」
背後からの声に振り返れば、拓哉がやってくる。
「お兄ちゃん!? 動いて大丈夫なの?」
拓哉の腹には布が巻かれていたが、血でどす黒く染まっていた。
「少しの時間ならな。その肩――唯菜だって長くは戦えないだろ」
拓哉ほどではないが、唯菜の左肩からも血が滲んでいた。
「そ、そんなことないもん!」
唯菜は否定したが、強がっているのは亜耶香の目にも明らかだった。
「唯菜――」
拓哉は優しげな目をして、唯菜の頭に手をポンと置いた。
「はうっ!」
唯菜の体がぴくりと跳ねる。その頬は上気していた。
「頑張って戦おうとしてくれていることは嬉しい。だけど戦場では、仲間の体調を正確に把握することが大切なんだ。だから教えてくれ。全力を出せるのは、あとどれくらいだ?」
「ご、五分くらい、かな」
唯菜は上目遣いで答えた。
かなり短い、と亜耶香は思ったが、拓哉は唯菜ににこりと笑みを向けて言った。
「それだけあれば十分だ」
拓哉が刀を構える。
「今の俺じゃ、あいつを一人で抑えるのは難しい。唯菜、一緒に頼めるか?」
「もちろん!」
拓哉が亜耶香のほうを見た。
「如月さん。俺たちが全力であいつの隙を作るから、攻撃よろしく」
「頼んだよ、亜耶香!」
二人からの信頼が伝わってきて、亜耶香は思わず涙ぐんだ。
「ちょ、ちょっと亜耶香、何泣いてるの?」
「な、何でもないです」亜耶香は涙を袖で拭った。「攻撃は任せてください!」
亜耶香たちは死神と向かい合う。
「話し合いは終わったか?」
「ああ。次で終わらせる」
拓哉の強気な言葉に、死神は一瞬目を見開く。
「……ほう。それは楽しみだ」
「ギャハハハ! 楽しませてくれよ!」
「――行くぞ!」
拓哉と唯菜が、死神に向かって突進する。
亜耶香は彼らの背後を走り、ついていく。
「せやぁあああ!」
「やあぁあああ!」
拓哉と唯菜の刀――黒と白の刃が、疾風迅雷の速さで死神を襲った。
死神は大鎌を素早く振るってガードしているが、明らかに拓哉たちのほうが優勢。
亜耶香の攻撃がなくても、このまま押し切れそう――。
だけど、そう簡単にはいかなかった。
「ギャハハハ! もっとだ! もっと来い!」
大鎌の速さが徐々に速くなっている。この短期間で拓哉たちの攻撃に順応しているのだ。
急がないと!
亜耶香は隙を突いて、死神に掌底や蹴りを繰り出していく。
だが――、
「甘いな」
すべてガードされる、もしくは攻撃が入ったとしても浅い――ダメージはほとんどないだろう。
――どうして!?
亜耶香は必死に攻撃するが、決定打には至らない。段々と焦りも募っていく。
――どうして!? どうして!? あれだけ稽古したのに!
手足の感覚が遠くなっていく。まるで自分の体じゃなくなっていくみたいに。
――どうして!? どうして!? どうして!?
「如月さん! 落ち着いて!」
「亜耶香! 敵の動きをよく見て!」
ふと二人の声が聞こえて、亜耶香の胸に温かいものがこみ上げてきた。
手足の感覚も戻ってくる。
死神の動きが――隙が、見えてくる。
死神の右肩に、一瞬大きな隙ができた。
「いきます! はあぁあああ!」
亜耶香は、ありったけの力で、右肩に掌底を叩き込んだ。
はっきりとした手ごたえがあった。
死神の体は大きく吹っ飛び、地面をバウンドしながら転がった。右手に持っていた大鎌が、男から少し離れた場所に落下する。
しばらく待っても、死神は立ち上がってこない。
亜耶香たちは顔を見合わせて、倒れている死神のもとへと慎重に近づいていく。
「……私の負けだ」
死神は仰向けに倒れていた。その右肩は明らかに潰れている。
死神はそのままの姿勢で、亜耶香たちのほうに目を向けた。
「右肩をやられて、満足に武器も振るえない……。見事な掌底だった……」
「あっけない幕切れだな」
拓哉の言葉に、死神がここにきて初めて笑った。笑ったと言っても、ほんの少し口元を緩めただけだったけれど。
「鬼狩りも人間だ。鬼の本気の攻撃を真正面から受ければ、無事では済まない」
「だけど、これまではどうしてたんだ? 鬼と何度も戦ってきたんだろ。鬼の攻撃を受けることもあったはずだ」
「いや……直撃したのは、今のが初めてだ。これまではすべて、直撃を避けるようにしてきたからな」
「すべてって……」
拓哉は驚いているようだった。
「それが鬼と戦うということだ。一発でも攻撃をまともに食らえば、致命傷。私はまだマシなほうだ。こうして右肩が使い物にならなくなる程度の怪我で済んでいるのだからな」
「……どうして、鬼狩りなんかしてるんだ?」
「鬼に家族を殺されたから――なんてエピソードがあったら、許してくれるのか?」
「それは……」
「特に理由などない。街を歩いていたら声をかけられた。国のために働かないかと。元から体を動かすのは得意だった。鬼を殺すのにも罪悪感はなかった。鬼狩りが性に合っていた――それだけだ」
「嘘だな」
「……なに?」
拓哉の言葉に、死神が眉をひそめる。
「鬼を殺すのに罪悪感がなかった――それは嘘だと言っているんだ」
「嘘ではない。私はどれだけ鬼を殺しても、悪いことをしているとは思わなかった。鬼は人並み外れた力を持つ危険な存在だ。始末しなければ、国が滅ぶ可能性だって――」
「だったら、どうして今、そんなに晴れやかな顔をしているんだ」
「……今の私が、晴れやかな顔をしているだと……?」
確かに今の死神は、繋がれていた重い鎖からようやく解放されたような表情を浮かべていた。
「鬼を殺すことに、心の奥底ではずっと罪悪感を抱いていたんだ。だから、今ようやくその役目から降りられることに、お前は満足している」
「そんな……そんな、馬鹿な……」
「お前と初めて会ったとき、こんな言葉を残していったな――『両親の命を奪った私を殺したければ、強くなることだ。でなければ私を殺すことなど到底叶わないだろう』と」
「……それがどうした」
「お前は鬼を殺すことに罪の意識を感じていた。目撃者である俺たちを生かしたのは、鬼ではないという理由の他に、できることならいつか俺たちに復讐してもらいたかったからだ。そうして断罪されたいと思っていたんだろ。違うか?」
「……」
死神は答えない。拓哉の言ったことが真実だと認めているようなものだった。
それにしても――と亜耶香は思う。
なぜ拓哉はこれほど、死神の気持ちが分かるのだろう。まるで、自分も罪の意識について深く考えたことがあるような……。
「――ふざけないで!」
亜耶香の思考は、唯菜の叫び声で遮られる。
「何が断罪よ! だったら始めから二人を殺さなくてよかったじゃん! パパとママを返してよ! ねえ!」
唯菜が死神の胸倉を掴んで揺すった。死神は抵抗することなく受け入れている。
「……唯菜」
拓哉が背後から唯菜をそっと抱きしめる。
「もういいんだ……いいんだよ」
泣きじゃくる唯菜は、徐々にその動きを弱めていき――、
「うぅ……。お兄ちゃん! お兄ちゃん!」
拓哉の胸に顔をうずめた。
拓哉は少し迷う素振りを見せたが、彼女の頭にそっと手を添えて優しく撫でる。
そんな二人を見ていると、なぜだか胸がチクリと痛んだ。
拓哉は、未だ仰向けに倒れている死神に言った。
「お前を殺しはしない。殺されて罪を償おうなんて、許されるはずがない。……いや、俺が絶対に許さない。お前は罪悪感を抱きながら生きるんだ。そうしたらいつか……」
拓哉はそこで、言うのをためらう素振りを見せた。けれど、言うことに決めたらしく、
「その罪悪感に救われる日が来るかもしれない。それは誰にも分からない。生き続けることでしか分からない。……俺は、いつかお前の罪悪感が、お前を救ってくれたらいいって思ってる。そうしたら、父さんと母さんの死に……意味があったんだって、無理やりにでも納得できるかもしれないから。だから――お前は殺さない」
拓哉は唯菜の体を支えながら立ち上がると、「行こう」と亜耶香に声をかけてきた。彼の目を見ると、涙を必死にこらえているのが伝わってきて、思わず亜耶香は泣きそうになった。だけど、彼が泣いていないのに、自分が泣くわけにはいかないと、亜耶香もまた涙をこらえる。
死神に背を向けて、亜耶香たちは歩きだす。
こうして鬼狩りとの戦いは幕を閉じる――はずだった。
「ダメじゃないですか~。せんぱ~い」
背後から、聞き覚えのない声がした。
振り返ると、見知らぬ女が立っていた。倒れている死神を上から見下ろして、下卑た笑いを浮かべている。
女は手に持った片手剣を掲げると、死神に突き刺した――。
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