第11話

「お兄ちゃん、あがったよ~」

 拓哉がリビングでテレビを見ていると、バスタオルを頭に巻いた唯菜と亜耶香がやってきた。二人とも服はパジャマだ。唯菜のだとサイズが小さいのか、亜耶香は先ほどから胸元が少し苦しそうだ。

「お兄ちゃん、どこ見てるの?」

 唯菜が無邪気な笑顔で訊いてくる。

「……いや、別に」

「そう? ならいいけど」

 唯菜は「アイス~アイス~」と言いながら、冷凍庫を開ける。

「亜耶香もアイス食べる?」

「あ、えーっと……はい、いただきます」

「――ほい」

 棒アイスを二本取った唯菜が、片方を亜耶香に手渡す。

「あ、ありがとうございます」

 亜耶香はアイスを両手で丁寧に受け取った。

「ん~! 美味し~! 夏はやっぱりアイスだよね~」

 アイスを咥えた唯菜が、緩んだ頬に手を添える。

 対する亜耶香はと言えば、

「……」

 じーっとアイスを見つめていて、一向に食べる気配がない。

「如月さん? もしかして、アイス苦手なのか?」

「い、いえ!」

 亜耶香はぶんぶんと首を横に振って、

「……その、アイスを食べるのが初めてで、少し緊張してしまって……」

「ええっ!? 亜耶香、アイス食べたことないの!?」

 唯菜が目を丸くする。

 拓哉も内心で驚いていた。

 アイスを食べたことがない?

 いや、もちろんそういう人がいてもおかしくはないが、十三歳で今まで一度もアイスを食べたことがない人は、かなり珍しい部類に入るのは間違いない。スーパーでもコンビニでもどこにでも売っているデザートだし、値段も手頃で、夏の暑い日には思わず食べたくなるのがアイスだ。目の前の女の子は、その誘惑に打ち勝ってきたというのか……。

「お兄ちゃん? 何か目が変になってるよ? 拾ってきた子犬が実は遠い北の国からやってきたことを知ったとき、みたいな」

「こほん……唯菜の気のせいだろ。俺はただ少し考え事をしていただけだ」

「そう?」

 小首を傾げる唯菜から目を逸らし、亜耶香に話しかける。

「アイスは美味しいからな。如月さんもきっと気に入ると思う」

「は、はい」

 亜耶香は、ガラス細工を扱うような慎重な手つきで、アイスの封を開けた。

「い、いただきます」

 亜耶香は小さく舌を出して、棒アイスの先をちろりと舐めた。

「んっ!」

 亜耶香の背筋がピンと伸びる。

「お、美味しいです!」

 亜耶香の表情がパッと明るくなる。

「それはよかった」

 夢中でアイスを舐める亜耶香を見ていると、拓哉も嬉しくなった。

 けれど、このまま穏やかに夜の時間が過ぎていく――ことにはならなかった。

 亜耶香の頭から、巻いていたバスタオルがひらりと床に落ちる。

「美味しいですっ」

 アイスに夢中の亜耶香は、バスタオルが落ちたことに気がついていない。

「亜耶香、その頭……」

 唯菜が亜耶香の額を見て言う。拓哉も彼女の額から目が離せなかった。

「――っ!」

 亜耶香がハッとした表情を浮かべ、両手で額を隠した。

 手に持っていたアイスが床に落ち、ぐしゃりと潰れる。

「あ、あ……」

 亜耶香が、拓哉たちと床に落ちたアイスの間で視線を彷徨わせる。

「――っ!」

 そのまま部屋の外に飛び出していこうとする亜耶香の腕を、唯菜が掴む。

「待って!」

「い、いやっ!」

 掴まれていた手を、亜耶香が振り払う。

「――きゃ!」

 手を振り払われた唯菜は体勢を崩して、床に尻もちをつく。

 拓哉は驚いた。普段から稽古で鍛えている唯菜は、平均的な成人男性を遥かに凌駕するほどの身体能力を有している。その唯菜を軽く振り払えるほど、亜耶香の身体能力は高いということか。

「わ、私、そんなつもりじゃ――」

 亜耶香は握った両手を胸に抱くようにして、首を振りながら後ずさる。

「ご、ごめんなさい!」

 背を向けて立ち去ろうとする亜耶香だったが、

「待てって言ってるでしょ」

 起き上がった唯菜が、むんずと亜耶香の手首を掴む。

「え? ど、どうして……?」

 亜耶香は左右に目を泳がせている。唯菜が懲りずに構ってくるのが不思議なのだろう。

「何が『どうして』よ。あたしが待てって言ってるのが聞こえないの? それともなに? 生意気にもあたしの言うことを無視しようってわけ? あたしは亜耶香に訊きたいことがあるの。亜耶香、あなた――」

 亜耶香は怯えた表情を浮かべ、掴まれていないほうの手で懸命に額を隠そうとしている。

「鬼、だったのね」

 そう。亜耶香の額には、母の遺体にあったのと同じ、鬼の角が生えていた。

 もし拓哉たちが鬼の存在を知らなかったとしたら、何が何やら分からず驚き固まって、亜耶香をそのまま逃がすことになっていただろう。

 だけど、拓哉たちは鬼の存在をすでに知っていた。

 亜耶香が鬼であることには驚いたが、所詮それだけと言えばそれだけだ。

 亜耶香は目を丸くしている。

「お、鬼を知ってるんですか?」 

 唯菜が一瞬目を伏せてから答える。

「……あたしたちのマ――母親が、鬼だったの」

「鬼……だった」

 その言葉の意味するところを正確に理解したのだろう。亜耶香はひどく悲しげな表情を浮かべたかと思うと、ぽろぽろと涙を流し始めた。

「え、ちょっと!? なんであんたがボロ泣きしてるわけ!?」

 唯菜が亜耶香の腕から手を放し、あたふたとする。

「だ、だって――!」

 亜耶香の泣きが激しくなる。

「もう! ほら! 泣きやみなさいって!」

 先ほど亜耶香が落としたバスタオルを、唯菜が拾って手渡す。

 え、それ渡すのか。床に落ちたやつだろ――と拓哉は思ったが、亜耶香も気にする余裕がないのか、

「あ、ありがとう、ございます――」

 泣きながら受け取って、顔に当てる。

 それからもしばらく泣いていた亜耶香だったが、落ち着いたのか、タオルから顔を上げた。

「……すみません。その、色々と考えてしまいました……」

「別にいいって。それよりほら、座って。訊きたいことがあるから」

 床にへたり込んでいた亜耶香に唯菜が手を貸して、テーブルまで連れてくる。

 亜耶香を椅子に座らせた唯菜は、拓哉の隣――亜耶香の真正面の席に座って話しかける。

「改めて確認するけど、亜耶香は鬼なのよね?」

「……はい、そうです」

「鬼って、他にもたくさんいるものなの? 深い山の奥で暮らしてるとか、街中で人間たちに紛れて暮らしてるとか、話だけはチラッと聞いたけど」

「え、えーっと」

 亜耶香は困った顔を浮かべている。

 拓哉は亜耶香が何を言いたいのか分かったので、口を挟むことにした。

「唯菜。まずは俺たちについて話したほうがいいだろ。如月さんも気になってるはずだ。俺たちが人間なのか、それとも鬼なのか。そして――俺たちが何を成し遂げようとしているのか」

「あ、そうだよね。お兄ちゃん、説明お願いしてもいい? あたしよりもお兄ちゃんのほうが説明上手だし」

 妹からそんな風に言われたら、断れるはずもない。

 拓哉は亜耶香に説明する。

 拓哉たちは人間と鬼のハーフで、両親を鬼狩りに殺されたこと。

 その鬼狩りに復讐するために、元鬼狩りである祖父の家で刀の腕を磨いていること。

 他にも、亜耶香の顔色を見ながら、鬼狩りの風貌など、聞きたそうなところは適宜付け加えながら話した。

「――とまあ、こんな感じだ。分からないところがあれば、遠慮なく言ってくれ」

「さすがお兄ちゃん! すごく分かりやすかったよ!」

 隣で聞いていた唯菜が、笑顔で腕を絡めてくる。

「おい唯菜。そんなこと言うと、如月さんが質問しづらくなるだろ」

「ハッ! ごめんなさい……」

 唯菜がしょぼんと肩を落とす。

「いや、別にそこまで気にしなくてもいいぞ」

 唯菜はなぜかチラチラと上目遣いで拓哉のほうを見てくる。まるで何かをねだっているように……。

 ふむ……。

 少し考えてみたが、よく分からなかった。

「……唯菜、どうかしたのか?」

「むぅ」唯菜は頬を膨らませる。「もう! これだからお兄ちゃんは!」

 唯菜はそれだけ言うと、ぷいと顔を背けてしまった。

 どうやら何かがお気に召さなかったらしい。これまでの経験上、訊いても素直に教えてくれそうになかったので、亜耶香との話に戻ることにする。

「こほん。如月さん、何か分からないところはあったか? 他に訊きたいことがあれば、それを訊いてくれてもいい」

「えーっと、じゃあ一つだけ。その鬼狩りっていう人たちは、どうして鬼を狩っているんですか?」

 鬼である亜耶香としては、気になるところだろう。

「昔、鬼が反乱を起こしたことが何度かあったらしい。それで国は鬼を危険分子とみなして、討伐するようになったと聞いている」

「で、でも、それって……」

「如月さんが納得いかないのも分かる。おそらくだが、多くの鬼は俺たちの母や如月さんみたいな、善良な鬼ばかりに違いない。そうでないと、今頃日本は至るところで争いが起きる無法地帯になっているだろうから」

 反乱を企てるような鬼たちは、全体の一部なのだろう。

 鬼狩りの立場としては、たとえ少数であっても、反乱を起こす可能性が少しでもあるのなら討伐しておきたいという気持ちなのだろうが。

「鬼狩り……許せないです」

 亜耶香がバスタオルをぎゅっと胸に抱く。

「その、一つお願いがあるんですけど……」

 亜耶香は緊張の面持ちを浮かべている。

 拓哉は目で続きを促した。

「わ、私も、仲間に入れてもらえませんか?」

 ……ん? 仲間?

 拓哉は一瞬、亜耶香が何を言っているのか分からなかった。

 けれど、隣で聞いていた唯菜には正しく伝わったようで、

「言っとくけど、生半可な気持ちじゃないから。もしそうなら、ぶっ飛ばすよ」

「な、生半可な気持ちなんかじゃないです。本気です」

 亜耶香は一つ深呼吸してから、決意を滲ませた表情で告げる。

「少し、昔話をさせてください」

 それから亜耶香は、幼い頃の出来事について語った。

 亜耶香は、鬼たちが暮らす山深い村で育ったこと。

 八歳の頃、村に一人の男がやってきて、住民たちを皆殺しにしようとしたこと。

 亜耶香と母親は森へ逃げたが、男に追いつかれ、母親は亜耶香を逃がしてその場に残ったこと。

 亜耶香は逃走中に意識を失い、運よく今のアパートの大家に助けられたこと。

「さっき、母としばらく会ってないって話しましたけど……多分、母はもうこの世にはいないと思うんです。おそらく、その男――鬼狩りに殺されて……」

 悲しみと悔しさの入り混じった声だった。

 拓哉たちの母親が死んだという話を聞いたとき、亜耶香は号泣していた。

 あのときは、他人の母親の話でそこまで泣くのか、と少し驚いたが、己の境遇と重ね合わせていたからだと分かれば、腑に落ちた。

「それに、多分ですけど、その拓哉さんたちの両親を殺したっていう男……私の村を襲った男と同じだと思うんです。黒装束に大きな鎌、それに空虚な瞳……」

 先ほどの亜耶香の「仲間に入れてくれませんか」という言葉の意味を、拓哉は理解した。

 仲間というのは、「復讐の仲間」という意味だったのだ。

 亜耶香の話を聞いた唯菜が言う。

「亜耶香、ごめん。生半可な気持ちとか言って。亜耶香が本気だってことは十分に伝わった」

 唯菜はそこで拓哉のほうを見て、

「お兄ちゃん、亜耶香も一緒にいい?」

 拓哉は即答できなかった。

 理由は二つ。

 一つ目は――、

「如月さんの強さを知らない。如月さんはどれくらい強いんだ?」

 ぶっちゃけると、弱かったら足手纏いになるだけだ。亜耶香をかばって、唯菜の身に危険が及ぶ可能性もある。それなら始めから仲間に入れないほうがいい。

「あたしの手を振り払うほどの力があったし、かなり強いとは思うけど……」

 唯菜が亜耶香に目をやる。

「え、えーっと、どれくらい強いかと訊かれると、正直よく分からないです。誰かと戦ったこともないので」亜耶香は額の角に手を添える。「この角が生えた状態が強いことは確かなんですけど」

「角が生えた状態が強い? どういうことだ?」

「えーっと、鬼は角を生やしたり、額の中にしまったりできるんです。角を生やした状態だと全力を出せるんですけど、角をしまっていると人並みにしか力が出せません。いつもは角をしまっていることが多いです。角を見られたら、鬼であることがバレて大変ですから」

「意識的に角を出し入れできるってことだな。じゃあ、どうしてさっき俺たちの前で角を生やしたんだ?」

 亜耶香は頬を染めて下を向くと、

「その、恥ずかしいんですけど、私、角の出し入れが上手くできなくて……。感情が高ぶると、思わず角が生えちゃうんです」

「……さっきは、アイスのあまりの美味しさに感情が高ぶって、角が生えてしまったと」

「……はい」

「帽子を被っていたのは、万が一にも感情が高ぶって角が生えても、周りに見られないようにするためか」

「…………はい」

 先ほど唯菜に風呂へと連れていかれるとき、嫌がっていたのも、唯菜に角を見られる危険があったからだろう。

「事情は理解した。逆に角を生やしたくても生やせないってケースはあるのか? いざ鬼狩りと戦うってなったときに、角が生やせなかったら問題だろ?」

「そ、それはないです。感情が高ぶったときに勝手に角が生えちゃうくらいで、それ以外は思い通りに角を出し入れできます」

 それなら戦う分には問題ないか。

「あとは、実際に如月さんの強さを確かめておきたいよな。それは如月さんも同じだと思うし。俺たちが弱かったら、如月さんも困るだろ?」

「い、いえ! そんなことは! 拓哉さんが強いのは分かっていますから。さっき男の人たちから助けてくれましたよね。唯菜さんも、さっきから見ていて体の使い方がすごく上手いなって思ってたんです。私の腕を掴むときの動きも素早かったですし」

 意外とよく見てるんだな、と拓哉は思った。

「だが、それでも戦って互いの実力を確認しておいたほうがいい。仲間に加わるとなったら、互いの背中を預ける場面も出てくるかもしれない。そうなったときに、安心して背中を任せられるかどうかは大きいだろ」

「それは……そうかもしれません」

「決まりだな。今日はもう遅いし、明日にでも一試合頼めるか? 明日は日曜日で、俺たちも一日フリーだからな」

 祖父との稽古は、毎週日曜日が休みだった。唯菜は当初休みなしで稽古したいと主張したが、祖父が「体を休めるのも稽古のうちだ」と言ったためだ。

 今では祖父の判断が正しかったと拓哉は思っている。おそらく唯菜もそうだろう。

 意外と疲労は溜まるものだ。休みなしで稽古していたら、体を壊していたに違いない。

「あ、あの!」

 風呂に入ろうと席を立ったところで、亜耶香が声をかけてきた。

「どうかしたのか」

「よければ、今から試合をお願いできませんか? 明日に試合があるって考えたら、私、緊張して夜眠れないと思うので……。鉄は熱いうちに打てとも言いますし……」

「だけど、如月さんは風呂上がりだろ。折角風呂に入ったのに、また汗をかくことになるぞ」

「そ、そうでした……」

 そこまで考えていなかったようで、亜耶香は肩を落とす。

 このまま試合は明日に流れるのかと思っていたら、思わぬところから亜耶香を援護する声があった。

「亜耶香。お風呂ならまた入ればいいでしょ」

 唯菜は亜耶香のそばに行って、耳打ちする。

「――下着も新しいのを貸してあげるから」

 拓哉に聞こえないように耳打ちしたつもりなのだろうが、ばっちり聞こえていた。

 唯菜の話を聞いた亜耶香が頷く。

 亜耶香は拓哉のほうを見て、多少大げさな口調で言った。

「た、確かに! 唯菜さんの言う通りですね。――拓哉さん。私、もう一度お風呂に入るので大丈夫です!」

「……そうか」

 本人がそこまでして戦いたいのなら、止める理由はなかった。

「じゃあ、運動できる格好に着替えたら、道場に来てくれ。場所は唯菜に訊くといい」

「お兄ちゃん、ちょっといい?」

「ん? どうした?」

「亜耶香の相手、あたしじゃダメかな?」

 唯菜がどうしてそんなことを言い出したのか、拓哉にはピンとこなかった。

「如月さんの実力を知りたいだけだから、別に唯菜でも構わないが――」

 亜耶香がよほどの強者でなければ、動きを見るだけで実力はだいたい分かる。

「如月さんと戦いたいのか?」

「うん! さっき手を振り払われたから、その分きっちりお返ししときたいなって思ったの」

 笑顔でそう言う唯菜に、拓哉は背筋がヒヤッとした。

「ひ、ひぇ!」

 亜耶香に至っては、露骨に怯えていた。

 こうして、唯菜と亜耶香が模擬戦を行うことになった。

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