第10話――唯菜side――

 唯菜は、亜耶香と湯船に浸かっていた。湯船はそこそこ広いため、二人で入っても狭くはない。

 当然ではあるが、今の亜耶香は帽子を被っていない。お風呂に入るときも頑なに脱ごうとしない亜耶香から、唯菜が無理やり剥ぎ取ったのだ。家の中ならまだしも、お風呂に入るときも帽子を被るなど、言語道断。どうやって髪を洗うというのか。

 ひょっとしたら頭部に怪我をしていて傷でも隠しているのかと思ったが、そんなことはなかった。亜耶香の額はつるつるで綺麗だったし、銀の髪もさらさらだった。

 なぜ帽子を脱ごうとしなかったのか、その理由を尋ねたが、亜耶香は頑なに首を振るだけだった。何か言いたくない事情でもあるのだろう。唯菜は仕方なく引き下がった。

「あ、あの……」

 湯船の向かいに浸かる亜耶香が、おずおずと話しかけてくる。

「なに」

 唯菜は冷めた目を向ける。

「い、いえ……何でもないです」

 亜耶香はそう言って口元まで湯に入ると、チラチラと唯菜のほうを見てくる。

 唯菜の豹変ぶりに戸惑っているのだろう。

 ――ほんと、あたしって嫌な奴。

 唯菜は内心でため息をついた。

 兄に甘えたい。

 兄に構ってほしい。

 兄に「可愛い妹」として見てほしい。

 そんな兄への想いが、唯菜を駆り立てる。

 兄が亜耶香に優しくしてほしいと言ったから、兄の前では優しく振舞うようにした。

 けれど、兄のいない今なら、別に亜耶香に優しくする必要はない。

 路地裏で絡まれている亜耶香を見たときから、彼女の正体には気づいていた。以前兄がホームでじっと見つめていた女の子だと。あのときは兄の行動に気づかないふりをしたけれど、兄が向かいのホームにいた亜耶香に目を奪われているのは明らかだった。

 一目惚れ――その言葉が相応しい目を、兄は亜耶香に向けていたのだ。

 唯菜は驚いた。これまでの兄は、綺麗な女性や可愛らしい女の子と道ですれ違っても、興味を示しているようには見えなかった。

 それなのに、どうして……。

 唯菜は、当時は名前も知らなかった亜耶香を憎たらしく思った。

 兄を奪われるんじゃないか――不安に駆られもした。

 けれど、それから一か月。兄と一緒に出かけた先で、再び亜耶香に出会うことはなかった。

 彼女はこの辺りに住んでいるわけではないのかもしれない。あの日はたまたま近くを通りかかって、偶然すれ違ったにすぎないのだろう。今後、彼女に会うこともないに違いない。

 そんな風に思って安心していたときに、路地裏でチンピラに取り囲まれている彼女を見かけたのだ。

 唯菜としては、彼女を助けるつもりはなかった。痛い目に遭えば、彼女もこの辺りをうろつかなくなるかもしれない。そうなれば好都合だとさえ思っていた。

 だけど――兄はやっぱり彼女を助けにいった。

 兄のその後の反応を見る限り、どうやら彼女が亜耶香だと気づいて助けにいったわけではないらしい。困っている人がいれば誰であっても助けにいくヒーローのような兄を、唯菜は誇らしく思った。

 でも、助けられた亜耶香のことを見ていると、段々と腹が立ってきた。

 おどおどしていて、見ているとイライラさせられる。

 抜群に可愛らしい顔と、スタイルの良さに、女として負けた気分になる。

 何より、兄が一目惚れした相手だというのが気に入らなかった。

 だから、事あるごとに亜耶香に突っかかった。兄の前だし、いい子で可愛い妹でいたかったけれど、歯止めがきかなかった。

 亜耶香にきつい言葉をぶつけるたび、優越感を味わうことができた。

 けれど、同時に自己嫌悪にも襲われた。

 自分はなんて卑しい人間なんだろう。人を罵倒して優越感を覚えるなんて……。

「あ、あの……」

「さっきから、なに」

 唯菜の冷たい返答に、亜耶香は話すのを束の間ためらったように見えた。

 だけど、亜耶香は話を続けた。

「その、何か悩みでもあるんですか……? 私でよければ、話し相手になりますけど……」

「……はぁ~」

 唯菜は盛大にため息をついた。

 あんたのことで悩んでいるんだってば、とは言えなかった。その話をしたら、兄に対する気持ちのことにも触れなければならなくなる。他人――特に亜耶香にだけは知られたくない。

 能天気な亜耶香を見ていると、色々と考えるのが馬鹿らしくなってきた。

「亜耶香。お風呂あがったら、ちゃんと料理教えなさいよ」

 唯菜は亜耶香の問いには答えず、そう告げた。

「え、あ、はい」

 亜耶香から料理の技を盗んで、兄に美味しいご飯を食べてもらう。

 単に亜耶香に優しくするのはどうしても癪だったから、とことん利用してやると決めたのだ。

 亜耶香には、唯菜が兄に褒めてもらうための糧になってもらわなければならない。

 だから――だからもう少しだけ、兄のいないところでも、亜耶香に優しく接してあげようと思った。

 甘い蜜を吸わせて、唯菜の言うことを素直に聞くように。

 本当に……本当にそれだけなんだから。

 唯菜はその後、亜耶香に話を振りながら、入浴時間を過ごした。

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