第2話

 離れにある道場で、芹沢せりざわ拓哉たくやは竹刀を振るっていた。

 いや、振るっていると言うよりも、手放さないように必死に握っていると言うべきか。

「――えいっ! やあ!」

 拓哉に向かって果敢に竹刀を振るってくるのは、二つ年下の妹、芹沢唯菜ゆいなである。

「――くっ!」

 鋭い攻めを繰り出してくる唯菜に、先ほどから拓哉は防戦一方だった。

 唯菜とは毎朝竹刀を交えているが、日に日に強くなっている気がする。

「――はあぁあああ!」

 そのまま唯菜に押し切られる形で、拓哉は急所に竹刀を受けてしまう。

「……負けました」

 竹刀が当たった部位を手でさする。

 竹刀とは言っても、急所に攻撃を受ければそれなりに痛い。

「お兄ちゃん。もっと真面目にやってよ。鍛錬にならないでしょ」

 白いタオルで汗を拭きながら、唯菜が不満げな声で言う。

「真面目にやってる。唯菜が強すぎるんだ」

「お兄ちゃんが弱くなったんだよ。最近、太刀筋にキレがないし、やる気もなさそうに見えるし。何か悩み事でもあるの?」

「……別に」

「嘘。絶対に何かあるでしょ。高校で上手くいってないとか? 教えてよ」

 拓哉は今年の四月から高校に通っていた。つまり高校一年生である。

「高校は関係ない」

「だったら何に悩んでるわけ?」

「……なんでもいいだろ。さっさと着替えて朝飯来いよ。母さんが待ってる」

「あ、ちょっとお兄ちゃん――」

 拓哉は道場を出て、母屋へと続く石畳を歩く。

 ふと空を見上げれば、雲一つない。七月に入り、日に日に暑くなっている。

 母屋の二階にある自室で高校の制服を手に取り、一階の風呂場へ。

 シャワーで汗を流した。

 制服に着替えてリビングに向かうと、母がテーブルに配膳をしているところだった。

「おはよう、拓哉」

 母は穏やかな笑みを浮かべている。

「おはよう」

 拓哉は配膳を手伝った。

 ちょうど最後の一皿をテーブルに置いたところで、唯菜が「おはよ~」と言ってリビングにやってきた。中学のセーラー服を着ている。離れにも風呂場があり、唯菜はそっちでシャワーを浴びてきたのだろう。

 拓哉が小学生の頃は、離れの風呂場で唯菜と一緒にシャワーを浴びていた。中学に上がってからは、拓哉は母屋の風呂場を使うようになった。妹と一緒に風呂に入るのが子供っぽいと感じるようになったためだ。

「父さん呼んでくる」

「あ、お兄ちゃん。今日はあたしが行こっか?」

「いや、いい。唯菜は母さんの手伝いをしててくれ」

「りょーかい」

 楽しそうにお喋りしながら鍋やフライパンを洗っている母と唯菜の後ろ姿を一瞥してから、拓哉はリビングを出た。

 玄関に立てかけられていた刀を手に取って、外に出る。

 家の周りは森が広がっていて、拓哉たちの他に住んでいる人はいない。

 母屋の裏手に回り、森へ少し入ったところで立ち止まる。

 拓哉は鞘に収まっていた刀を抜いて、構えた。

 木漏れ日がさす朝の森。穏やかな風に木の葉の揺れる音がする。

 シュッと不自然に響く微かな音を、拓哉の耳が捉えた。

「――父さんの勝ちだな」

 拓哉が振り向いて刀を振るうよりも早く、拓哉の首元に刀が突きつけられる。

「反応が遅すぎる。これじゃあ父さんを超えるのは百年、いや百万年早いな」

 カッカッカと、拓哉の父、芹沢大輔だいすけは豪快に笑う。

「……朝飯できたってさ」

 父はかけていたサングラスをくいと指で上げると、

「おお、そうか。母さんを待たせたらいかんからな。急いで行かないと。――お、そうだ拓哉。もう一戦どうだ?」

 先ほど朝食に行くと言っておきながら、次の瞬間にはあっけなく意見を覆す自由奔放さ。

 幼い頃は父に憧れを抱いたこともあったが、最近は煩わしいと思うことが増えた。

 父と話をしていると、波長が合わなくて、やけに疲れるのだ。

「実はこの刀、面白い機能があってだな。柄にあるこのボタンを押すと、刀身が銃弾みたいに飛び出すんだ。どうだ、面白いだろ。遠距離攻撃も可能な刀というわけだ。ちょうど対人で試してみたいと思っていたところでな――」

 父はたまに奇天烈な刀を持ってきて、こうして拓哉を対人戦に誘ってくる。

 そんな変わった刀、どこから手に入れてきたのやら……。

 これ以上父に付き合っていられない。

「……先に行くから」

 それだけ言って、拓哉は踵を返した。

「最近、朝の稽古はどうだ。唯菜とは仲良くやれてるか?」

 拓哉のそっけない態度に全く臆せず、父は隣に並んで話しかけてくる。

「……別に。普通」

「そうかそうか。それはよかった。拓哉も高校生になったし、そろそろ父さんが教えるばかりじゃダメだと思ってな。唯菜もだいぶ強くなったし、拓哉にとっても手強い稽古相手なんじゃないか?」

「……まあ、うん」

 ここ最近は負けてばかりだとは言えなかった。兄としてのプライドが邪魔をした。

「ただいま。――お、旨そうな匂いだ」

 リビングに入ると、母と唯菜は席についてお喋りをしていた。

 父と拓哉も席について、四人で「いただきます」と食事を始めた。すでに父はサングラスを外している。

 いつも通り他愛のない会話が続いた後、唯菜がこんなことを言い出した。

「そう言えばお兄ちゃん、何か悩みがあるんだって」

「――っ! ごほ! ごほ!」

 ちょうど味噌汁を飲んでいるところだったので、むせた。

 唯菜め。まさか父の前でその話題を持ち出すとは。

「なにっ!? そうなのか拓哉。悩みがあるなら何でも父さんに言ってみろ」

 案の定、父が大げさなリアクションで訊いてくる。

 隣に座る唯菜に恨めしげな視線を送ると、唯菜はちろりと舌を出した。全く悪いとは思っていないようだ。

 最近「悩みでもあるの?」という唯菜の質問を、拓哉ははぐらかし続けていた。

 唯菜は次なる手として、父への告げ口という方法をとることにしたらしい。

 母の様子はどうだろうと思って目を向ければ、特に驚いた風ではない。普段通りの穏やかな微笑を浮かべている。

 唯菜は母とよく喋っているのを見かけるから、ひょっとするとすでに母には話をしていたのかもしれない。

 大げさに心配してくる父にうんざりしながらも、拓哉は言葉を返す。

「別に。悩みとかない。唯菜が勝手に言ってるだけだ」

「嘘だぁ。だってお兄ちゃん、稽古中も上の空って感じだもん」

「なにっ! 拓哉、稽古中に他のことに気を取られるのは感心しないぞ。剣士たる者、たとえいかなる心境にあっても、刀を握れば心を研ぎ澄ませるもの。一人前の剣士への道のりはまだまだ遠い。これからはもっと厳しい鍛錬を――」

「うるさいな」

 拓哉自身も驚くほど冷たい声が出た。

「おい、拓哉。どうした。深刻な悩みでもあるのか。父さんに相談してくれれば――」

「剣士剣士剣士――口を開けば父さんはそればっかりだ。今時、剣士なんて職業はない」

 拓哉が悩んでいるのは、毎日のように刀を振り続けている自身の境遇だった。

 小学生の頃は、刀を振るう日々が当たり前だと思っていた。友達から「拓哉くんのパパは何してるの?」と訊かれたら、「剣士!」と元気よく答えていた。

 剣士という職業に疑問を持ち始めたのは、中学の頃からだ。

周りの友達の親が会社員などの仕事に就いている中で、拓哉の親だけが剣士をしている。しかも剣士と言っても、父は基本家にいて刀を振るっているばかり。何かの仕事をしてお金を稼いできたことは、拓哉の記憶にある限り、ただの一度もない。

 以前その話を母にしたら、「お父さんは昔たくさん剣士のお仕事をして、たくさんのお金を稼いだの。だからもう剣士の仕事をする必要はなくなったの」と言っていた。

 なんだ、じゃあもう剣士じゃないじゃん――とそのときの拓哉は思った。

 父は単なる無職だったのだ。

 それからというもの、拓哉は友達から親の仕事を訊かれるたびに言葉を濁した。

 親が無職って言うと馬鹿にされそうだったし、元剣士なんて言ったら、「剣士ぃ? 拓哉って頭おかしいんじゃね」と言われ、もっと馬鹿にされるだろう。

 高校に入ってからは、ますます日々の稽古に身が入らなくなった。

 刀を振るった先に何があるというのか。

 いくら刀を上手く振るえたって、現代では何の意味もない。

 毎日汗水垂らして稽古をしても、将来何かの仕事の役に立つわけでもない。

 同級生たちが放課後楽しそうに部活に向かう中で、拓哉は家に帰り、ひたすらに刀や竹刀を振るう日々。

 拓哉の今の心情を一言で表すなら、刀を振るうのに嫌気がさした、ということになる。

「もううんざりなんだ、父さんの自己満足に付き合うのは。……意味ないだろ、刀なんて振るったって。今は戦国時代じゃない。現代じゃ、刀を振るえても何の役にも立たない。だったら勉強とかスポーツとか、もっと別のことを頑張るように言うべきだろ、父親として」

「それはだな……確かにそうなんだが……」

 父が珍しく言葉に詰まっている。

 何か隠し事をしているようにも見えた。

「……もういい。――ごちそうさま」

 話そうとしない父に見切りをつけて、拓哉は食事の席を立った。

「拓哉!」

 リビングを去ろうとする拓哉の背に、父が声をかけてきた。

 拓哉は立ち止まる。

「……なに?」

「今日帰ってきたら、すべてを話す。それからどうするかは拓哉が決めることだ。――唯菜もだ。帰宅したら、二人で父さんの部屋に来るように」

「りょーかい」

「……分かった」

 何を聞いたところで、今更刀を振るうことに意味が見出せるとは思えなかったが、頷いた。

 リビングを出て玄関で靴を履いていると、パタパタと背後から足音が近づいてくる。

「ちょっとお兄ちゃん、待ってよ」

 スリッパを鳴らしながらやってきたのは唯菜だ。

 拓哉たちの家があるのは山の中腹。学校がある街に下りるまでは、いつも一緒に登校していた。

「よいしょっと。はい、準備オーケー」

 手早くローファーを履いた唯菜が元気よく言う。

「ちょっと唯菜。お弁当」

 母が手に弁当を持って、玄関にやってくる。

「あちゃー。焦って忘れてたよ。ありがと、ママ」

 いそいそと弁当を学生鞄にしまう唯菜を手持無沙汰に見ていると、母が声をかけてきた。

「拓哉。さっきの話だけれど、拓哉がやりたいことをすればいいと母さんは思うの。刀を振るうのが嫌になったのなら、別のことをしてもいい。そのときは一緒に父さんを説得してあげるから」

 母は相変わらず穏やかな笑みを浮かべている。

「けれど、刀を置くのは、父さんの話を聞いてからでも遅くないと思うの。父さんは拓哉と唯菜、二人のためを思って刀を教えていたんだって分かると思う。父さんの話を聞いて、それでもやっぱり刀を置くと拓哉が決めたのなら、そのときは遠慮なく父さんに言ってあげて。父さんは結構頑固なところがあるから、最初は納得してくれないかもしれないけれど、母さんも説得するから大丈夫。だから拓哉は、生きたいように生きて頂戴」

 微笑んで手を振る母に見送られて、唯菜とともに家を出た。

 山の中腹に位置する拓哉たちの家から麓の街まで、徒歩で一時間ほどかかる。

 辺りに他の家は一切なく、道路もない。そのため市バスも走っていない。

 人二人が並ぶのでやっとの狭い山道を、拓哉は唯菜と並んで歩く。

 道には大きめの石が転がっていたり、木の根っこが至るところに生えていたりして、凹凸が激しい。そのため自転車で通学というわけにもいかない。それに、たとえ地面の状態が良かったとしても、通学に自転車は選ばなかっただろう。行きは下りで楽だろうが、なにせ帰りはずっと上りだ。自転車を押して狭い道を一時間も上るのは、地獄でしかない。

 隣を歩く唯菜が話しかけてくる。

「話って何だろうね」

 父の言っていた「話」のことだろう。

「さあな。大方、父さんが刀を振るうようになったきっかけを力説されるんだろ……。それで俺たちのやる気を上げよう、みたいなさ」

「うーん、そんな感じじゃなかったけど。ママも関係してる感じだったし」

「そうだったか?」

「うん、なんとなくだけど、そんな感じがしたもん」

「だったら、母さんを守るために刀を振るうようになったとか、そんなところか。何から母さんを守るのかはさっぱり分からないが」

「あ、もしかしてあれじゃない。ママはどこかの国のお姫様で、パパは城からママを救い出すために刀を持って単身で城に乗り込んだとか」

「……漫画の読みすぎだ」

「そうかなぁ?」

「そうだ」

 唯菜と取るに足りない話をしながら、山を下りた。

 麓の駅で電車に乗って、三十分。

 駅チカの有名私立中高一貫校に、拓哉と唯菜は通っていた。

「――じゃ、あたし、こっちだから」

 校門を抜けてしばらく歩くと、唯菜は手を振って中等部の校舎へと向かっていった。

 拓哉も高等部の校舎へと向かった。

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