36 信用

 放課後になった。


 山本の代わりに、職員室まで鍵を受け取りに行く。


 視聴覚室に向かい、鍵を開けた。中は若干埃臭い上に、ムワッとする暑さだ。一旦窓を全開にして空気を入れ替えつつ、空調の電源を入れる。


 暫くしてから、備え付けの古くさいエアコンから生暖かい空気が吹き出してきた。少し待っていると段々と風が冷たいものに変わってきたので、窓を閉める。


 すると、エアコンの稼働を待っていたかのように、カチャ……と遠慮がちにドアが開かれた。振り返ると、顔を覗かせたのは、どこか切羽詰まったような表情の春香ちゃんだ。キョロキョロと中を見回している。俺以外に人がいないかを確認しているように見えた。


「お疲れ様。どうしたの?」

「お、お疲れ様です……! あの、井出先輩だけですか?」

「うん。今日は山本と、あと二年の佐藤は休みだよ」

「……! そうなんですね!?」


 春香ちゃんが、するりと身体を滑り込ませて中に入ってくる。そのままドアを押さえつけるように、背中を貼り付けた。……ん? 何か様子がおかしいぞ。やけに表情が強張っているような。


 意を決したように、春香ちゃんが口火を切る。


「あの……っ、井出先輩!」

「うん……?」


 ハッと気付いた。もしかしたら、この様子だと春香ちゃんは昨日の話を既に聞いているんじゃないか。だって、あれだけ仲のいい兄妹だ。可能性は十分に考えられる。


 どうやって話を切り出そうかと思っていたけど、これなら案外話は早いかもしれない。


 春香ちゃんが、拳を握り締めながら尋ねてきた。


「井出先輩はそのっ、山本先輩と……!」

「付き合ってない!」


 即座に返すと、春香ちゃんの大きな目が更に大きく見開かれる。あは、日向が驚いている時の目とよく似てる。……会いたいなあ。今すぐ会いたいよ。


 こういう時、俺の基準は最初から全部日向だったんだ、とつくづく思う。もしかしたら、日向と最初に出会った時既に、俺は日向に恋をしていたのかもしれない。面影を追い求め続けるくらいには、深く。


 ホッとした様子の春香ちゃんを見て思った。春香ちゃんに相澤という彼氏がいると知らなければ、今のやり取りから「俺のことが好きなんじゃないか」と勘違いしていたかもな、と。


 いや、そもそも最初から、春香ちゃんの態度から好意に近いものを感じ取っていたからこそ好きになった可能性はある。だって、ビビリな俺が告白しようと思えるくらい、分かりやすい好意を感じ取っていたってことじゃないか。


 実際は、春香ちゃんからの好意ではなかった訳だけど。


 じゃあ誰の好意だ? と問えば、当然この場合は『日向の』ということにならないか。


 日向は自分が嫌われた、避けられたと思って、俺に近付くことを躊躇していた。そんな日向を見ていた兄思いの春香ちゃんは、自分がスパイとなって俺の為人ひととなりを確認してから、日向に「話しかけろ」と発破をかけた。


 日向からそのことを聞かされて知っている俺は、もう勘違いしたりはしない。春香ちゃんを通して後ろから俺を見てくれていた人物を、もう見誤りたくはない。これも、俺の読みが正しければ――の話にはなるけど。


 どう切り出すべきか考えている様子の春香ちゃん。俺たちの周りの女子は、春香ちゃんといい山本といい、行動派で格好いい。


 同じレベルに上がっていくのは、ビビリすぎる俺にはまだハードルが高すぎるけど。


 でも、もう怯えてばかりいて前に進まないのはなしだ。


 だって俺は、日向を失いたくないから。


「春香ちゃん」

「は、はいっ」


 春香ちゃんが姿勢を正す。姿勢のよさも、日向を見ているようで微笑ましい。


「昨日から、日向の既読が付かないんだよね」


 春香ちゃんの目がまたもや見開かれる。


「日向、そんなに具合悪いのかな?」


 春香ちゃんが、どう答えようかと迷っている素振りを見せた。多分だけど、彼女は俺の真意を測りかねてるんだと思う。本当に大丈夫なのかと。


 だったら俺は、きちんと伝える。以前は好きだった筈の春香ちゃんに言うのは、何だかちょっとおかしな気分だけど。


「山本の告白を断った理由なんだけど」

「は、はい」

「好きな奴がいるからなんだよね」


 ああ、春香ちゃんの目ん玉が落ちそう。


 だけどまだ迷ってる雰囲気だったので、もっと分かりやすく伝えることにした。


「相手は、最近俺の隣によくいる背の高い奴なんだけど」


 春香ちゃんが、弾けたように一歩前に踏み出す。


「……! そ、その好きな奴ってまさか、絵が上手な人ですか!」

「……うん、そうだよ」


 まだ誰にも伝えていない想いを好きな相手の妹に最初に告げるのは勇気がいったけど、言ってしまった後はスッキリとしたものだった。山本のスッキリとした表情を思い出す。もしかしたら、俺も今あんな顔をしているのかもしれない。


「あのっ、井出先輩!」

「うん」


 春香ちゃんが、懸命に訴えてきた。


「お兄ちゃん、仮病使ってるんです! だから家でゴロゴロしてます!」

「仮病……」


 つまり、昨日俺のメッセージをスルーしたのは、わざとってことか。


 期待が、じわりと湧き起こってくる。


 と、春香ちゃんが鞄をガサゴソ漁り始めた。何をしてるんだろう? と黙って見ていたら、取り出したのは――白猫のアクリルキーホルダーが付いた鍵だ。……あれ、日向の絵じゃないか? まさか日向作の白猫でグッズまで作ってたの? 行動派……!


 春香ちゃんはパタパタとこちらに走り寄ってくると、訳が分からずに突っ立っている俺の右腕を持ち上げ、手のひらに鍵を乗せた。


「井出先輩に、家の鍵を渡します!」

「えっ」

「井出先輩、代わりに部室の鍵を預かります!」

「春香ちゃん……」


 普通に考えたら、家の鍵をただの部活の先輩に渡すなんて、あり得ないことだ。


 それと同時に、部長、副部長以外の部員に鍵を預けることも。


 キリッとした顔の春香ちゃんが、ズイッと手の平を俺に差し出す。


「……春香ちゃん」

「はい」

「君が俺を信用してくれたように、俺も君を信用する」


 ポケットから出した部室の鍵を、微笑みながらポトリと春香ちゃんの手の上に落とした。内心は、チビリそうなほどビビりまくっていたけど。


「顧問には、俺が急用で帰ったって伝えてくれる?」

「はい! お兄ちゃんには、春香が自主的に渡したと伝えて下さい! 親は夜まで帰ってきませんから、いるのはお兄ちゃんだけです!」


 どちらからともなく、頷き合った。リュックを背負うと、春香ちゃんに伝える。


「春香ちゃん、ありがとう! ……いってくる!」


 春香ちゃんが、両手の拳を握り締めた。


「頑張って下さい、井出先輩! お兄ちゃんを――お願いします!」


 暫く見つめ合った後。


 俺は踵を返すと、視聴覚室のドアを大きく開けて、一歩を踏み出した。


 ――日向の元へ。

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