8 お姫様抱っこ
結局。
日向が早速、怪我をした箇所を刺激しないように両手で器用にズボンを引っ張り上げていく。全てが痛みなく通過したので立ち上がってウエストを閉めようと思ったら、俺より遥かに体格のいい日向が無言のまま俺の脇に両手を差し込み、俺の身体を軽々と持ち上げてしまった。
「えっ!? ちょっ」
「……寄りかかって」
低い声が、俺の耳の裏で囁く。日向の声は低めで、言葉数が少ないので日頃はあまり気付かないけど、実はかなりのイケボだったりする。
「わ、」
ゾワワッと、鳥肌が一瞬立った。これまで聞いたことのなかったヒットソングをイヤホンで初めて聴く時と同じ感覚に、「イケボ怖え……」と戦慄を覚える。顔面よし体型よしの上にイケボまで揃ってるなんて、神様って奴はどれだけ不公平なんだ。
「え? ちょ、ちょっと……ぶふっ」
向き合う形になっていた俺の上半身と頬が、日向の胸筋にむぎゅっと押し付けられる。伸ばされた日向の両腕が、自然と俺の耳を覆ってガサゴソと音を立てた。何これ、何これえええ!?
突然の出来事に固まっている間に、日向が一番上までズボンを持ち上げ、なんとシャツまで中に押し込み始めたじゃないか。いや!? 手は怪我してないからできるよ!?
「ちょ……ひ、日向、ま……っ!」
「動くと危ないから。もっと寄りかかって」
「ひえ……っ」
同級生にズボンを穿かせてもらうという、何とも言えない居た堪れなさ。俺が言葉を失っている間に、日向は当然のようにズボンのボタンをはめた。
次の瞬間、俺は気付いた。このままだと、こいつは間違いなくズボンのファスナーも閉じようとする。だけど、同級生男子に股間のファスナーを閉じさせるのはどうなんだろう。さっきから日向の距離感は大分おかしいけど、いや、ない。さすがにない!
日向の手が下に伸びてきたのを察し、慌てて止めた。
「あとはじっ、自分でやるからいい!」
「でも」
日向の手が更に伸びてきたけど、それを跳ね除けつつ身体を半回転させる。それ以上手を出されないよう、ぽすん、と日向の胸に背中を預けた。
「よ、寄っかからせてくれればいいから!」
「! ……分かった」
内心「ひいいっ」と叫び声を上げながら、これ以上俺の羞恥心がとんでもないことになる前に、サッとファスナーを上げる。ふう、危なかった……!
と、頭頂にトン、と少し尖ったものが当たる。え? なに? と思っていると、すぐ真上からイケボが降ってきた。
「井出、病院は?」
日向が喋ると、トントン、と頭頂がノックされる。……これ、顎が乗せられているのか。くそう、身長差ってやつか! いいなあ、高身長!
溜息を吐きたくなるのを懸命に押し隠し、何でもないように答えた。
「この後、地元の駅前の整形外科に行く予定だよ。元々、体育祭の後に行くつもりだったんだ」
「送る」
すかさず言われたけど、さすがにそこまでさせるつもりはない。もたれかかっていた身体を起こすと、振り返りつつ仰ぎ見た。
「大丈夫だって。日向んちがどこにあるか知らないけど、駅も違うだろうし、もう気にするなって」
「……送る」
繰り返される言葉。……こいつ、頑固だな。なんとなく、さっきからそんな気はしてたけど。
かといって、ここで突き放したところで、「下僕になる」とまで言い切った日向がすぐに引くとも思えない。俺は必死で代替え案を捻り出した。あ、あるある。むしろ居てくれると有り難いやつが。
「あー……そしたら、一階に下りるまで鞄を持ってくれたら助かる」
上ってくる時は荷物はなかったけど、それでもかなり大変だった。これが下りで荷物もとなると、今度は踏み外して落ちる心配も出てくる。だから、日向の存在は、階段を下りることに関しては正直あった方が嬉しかった。
ビビリな俺は、「落ちたらどうしよう……っ」と石橋を叩いて渡るくらいのへっぴり腰になるのは想像に難くないからな。
日向が、真摯な眼差しでこくんと頷く。
「持つ。当たり前だ」
「マジで助かる。ありがとな」
もう、怒りなんてとっくに消えてしまっていた。ふへ、と笑いかけると、何故か日向の顎にグッと力が入る。……だから怖いってば!
「荷物、どれ?」
「あ、これとこれ」
鞄と体操着が入った巾着袋を指差した。
「分かった」
日向はひとつ頷くと、机の上に置かれていたスケッチブックを日向のリュックにドサドサと詰めていく。置きっ放しで誰かに見られたら嫌なんだろうな、と見守った。
と、何故かリュックを背負う。あれ? なんで? と思っていると、またもやおかしなことを言い始めたじゃないか。
「リュックがあるから、おんぶできない」
「はい?」
いや、誰もおんぶしてくれなんて頼んでないよ? さすがにぽかんとしていると、日向はスタスタと俺の前までやってきて、何故か俺の鞄と体操着袋を俺の胸に押し付ける。
え? 持ってって言ったんだけど? と唖然としていると、日向が突然目の前で屈んだ。
「へ――」
直後、視界が一気に高くなる。すぐ目の前には、日向のモデルみたいな横顔。眉間に皺はよってるけど。
俺は今、日向にお姫様抱っこをされていた。――はい?
混乱した頭で、日向に尋ねる。
「あ、あの……日向? これはちょっとさすがに恥ずかしいっていうか」
だけど、日向はにべもなかった。
「誰もいない。これが一番早い」
そりゃまあ、俺もそうだとは思うけどな? でもな、俺には羞恥心ってものがあるんだよ? というか、お前がリュックを背負わなければいいだけの話じゃないか?
すると、俺がどう訴えるべきか考えあぐねている隙に、日向がまたしてもあの神々しい微笑みを俺に向けたじゃないか。
「首に……掴まって?」
「ブフッ」
変な息が鼻から吹き出していった。心臓がバクバクと高速で鳴り始め、冷や汗がたらりと背中を伝っていく。
同性だろうがなんだろうが、容姿が整ってる奴に破壊力抜群の笑顔を自分ひとりに向けられたら、心臓というものはどうしたって高鳴るらしい。俺、知らなかったよそんなこと。
俺が一向に動かず固まっているからか、日向が小首を傾げて囁いた。
「お願い」
「ぶっ」
今度は鼻水も吹き出す。やっべえ! 強面イケメンの「お願い」、半端ない破壊力なんだけど!
「落としたくないんだ……」
何故か、甘えるような目をして俺を説得しにかかる日向。日頃無愛想すぎるほど無愛想な日向の「お前に一体何があった」レベルの変わりように、俺の思考はとうとう停止した。どうでもよくなったとも言い換えられる。
「……下までだぞ」
「うん」
日向は何故か嬉しそうに顔を綻ばせると、大きな一歩を踏み出したのだった。
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