7 下僕

 机の上に広げられていたスケッチブックを、佐藤日向はパッと閉じた。


 そんな動きを見て、苛つく。


 なんだよ、そんなに見せたくないのかよ。昨日こいつが俺を跳ね飛ばしたのだって、多分絵を見られたくなかったからだろ。


 ブスッとしたまま、自分の席までひょこひょこ歩いていく。佐藤日向は切れ長の目を見開くと、不躾に俺の顔と足首にグルグルに巻かれた包帯を交互に見てきた。


 ……人の名前を呼んでおいて、その先何も言わないのかよ。本当、訳分かんねえ奴だな。


 普段だったら、佐藤日向の威圧的な雰囲気にビクビクしただろう。だけど、今の俺は違った。


 俺は現在、非常に怒っていたのだ。ビビる余裕もないほどに。


 ギギッ! と不快な音を立てて、椅子を引き出す。佐藤日向が俺を注視しているのは分かったけど、何も言わない奴に話しかけてやるほど、俺は親切じゃないんだ。


 ドカッと座ると、勢いよく上を脱いでその場で着替え始めた。下は左足だけで腰を浮かせて、なんとかジャージを脱ぐ。


 その間も、ずっと隣から視線を感じ続けていた。


 そして、無言。あのさ……いくら寡黙だからって、人をジロジロ見ながら黙ってるのはさすがにナシじゃね?


 そもそも、俺からこれ以上話しかける用もない。苛々しながら、着替えを進めていった。……見てるな……視線が痛い。


 ――あああっ、もう! なんなんだよ!


 我慢の限界があっさり訪れて、振り向きざまギロリと佐藤日向を睨みつける。


「……さっきから何? 何か用?」


 我ながら、クラスメートに対して冷たい態度だとは思った。だけど、よく考えたらそもそも今俺が陥ってる状況は、見られたくないスケッチブックを持って彷徨いていた佐藤日向のせいだとも言える。


 告白だって、振られるのは確実だったけど、走り切ることができたらきっと言えてた筈だ。その上で、笑って「おめでとう」って言えてたかもしれない。


 その日の夜はさすがに泣いたかもしれないけど、勇気を出して言えた自分に自信がついて満足してた筈だ。


 全部「かもしれない、筈」の話だけど、でも、その機会も全部奪われてしまった。結局俺は、駄目な俺のまま。ただ惰性で生きていくビビリな小心者から変われやしなかった。


 と、形のいい薄い唇を軽く開いていた佐藤日向が、驚いたような顔で尋ねてきた。


「……井出。怪我してるのか?」


 掠れ声に対して、俺はツンとしたまま答える。


「そう見えるならそうなんじゃないの?」


 シャツのボタンを閉じて、ブレザーに袖を通していく。ズボンに左足を通した後、右足を持ち上げて通そうとした。だけど、包帯が引っかかって先に進んでいかない。まさかの誤算だ。


「ツ……ッ」


 無理やり引っ張ると、激痛が走った。「畜生」と口の中で呟く。ふうー、と長い息を吐き、少しだけでも痛みを逃した。


 仕方ない、ここは一瞬の痛みを我慢して一気に引っ張るか――。


 すると、ふ、と陰ったかと思うと、直後に足許に跪いた大きな身体があるじゃないか。


「――は?」


 なんと、佐藤日向が俺の前に膝を突いている。……え、一体どういうこと?


 佐藤日向が、睨みながら俺を見上げて言った。


「井出。これまさか、昨日俺がぶつかったせい?」


 眼力が凄い。えっ、これ、なんで俺睨まれてるの? やっぱりこいつ、怖えって。


「……別に、それだけじゃないし」


 ついさっきまで、「佐藤のせいだ」って文句のひとつでも言ってやるつもりだった。だけど、睨まれながら聞かれたら、そんな強気なことは言える訳ないじゃないか。


 ふい、と顔を背けようとすると、佐藤日向の長い腕が俺の顔に伸びてきた。そのまま、両手で顔を挟まれてしまう。は? え、ちょっと?


 思わず目を瞠って佐藤日向を見ると、眉間に皺を寄せつつ俺を真っ直ぐに見ている佐藤日向が言った。


「俺のせいだ……」

「えっ」


 いやまあそうはそうなんだけど、そんなに睨まれてちゃ「そうだよ」なんて絶対無理、言えやしない。


 さっきまで破裂しそうになっていた怒りの感情が、自分でもありありと分かるくらいの勢いで萎んでいった。だって怖いもん。


「……いや、その、さっき一〇〇メートル走で転んだ前の奴にぶつかったのもあるし、だから、」

「昨日の内に痛めていた……んじゃないの?」

「う……っ」


 俺が答えるのを躊躇っていると、佐藤日向が身体をぐぐっと前に傾けさせて、俺の顔を両手で挟んだまま至近距離で尋ねる。


「正直に答えて。その怪我、昨日俺とぶつかったせい?」


 だ、だから、なにこの距離!?


 どんどん近付いてくる顔に恐怖を覚えて仰け反ろうにも、佐藤日向に顔面を固定されている為できない。この状況が、心底理解できなかった。


「え……と、それは……っ」

「言って、頼む……!」


 絞り出すような苦しそうな声で言われる。すっかりこいつを責める気なんてなくなっていた癖に、追い詰められてつい本当のことを言ってしまった。


「う……うん……」


 俺の答えを聞いた佐藤日向の目が、ショックを受けたかのように大きく見開かれる。――あれ?


「……悪かった、井出。自分のことでいっぱいで、周りが見えていなかった。俺の……落ち度だ」


 え? 謝ってきた? でも俺睨まれたままだよ? どういうこと?


「いや、落ち度って別にそこまでじゃ」

「人を怪我させて、気付かなかった。絶対、落ち度だ」


 そう言いながら、何故か親指の腹で俺の頬を撫でていく佐藤日向。だから距離感がおかしいんだってば。


 潤んだようにも見える黒い瞳は、一切逸らされることはない。


 そして、佐藤日向はとんでもないことを言い始めた。


「――井出。俺を……存分に使って」

「はい?」


 佐藤日向は、俺が聞き取れなかったとでも思ったんだろう。もう一度、今度ははっきり一語一句を区切るように言った。


「今この瞬間から、俺は井出の手足、いや、全部になる」

「いや、もしもし佐藤? 別に足以外に問題は、」

「俺のことは、下僕って呼んで」

「ちょっと!? いや、同級生をそんな呼び方できないよ!?」


 唐突な申し出に目を白黒させていると、佐藤日向が目線を下に落とす。


 そしてのたまった。


「……足首、痛くて穿けないでしょ? 俺が……穿かせる」

「うええっ!? いや、いいってば! 自分でできるし!」


 さっきから佐藤日向がおかしい! 同級生のズボンを穿かせるとか、普通に考えてありえないよな!? ついさっきまでの寡黙っぷりはどこに消えたんだよ!?


 佐藤日向は、真剣な眼差しを俺に向ける。


「絶対、痛くしないって……約束する。だから……俺に身を委ねて」


 言、い、か、たあああああ! なんかそれ、違う扉を開いちゃう台詞だから!


「さささ佐藤っ!? いやあのさ、俺大丈夫だからっ!」


 慌てて足を引っこ抜こうとしてみたものの、俺の顔からサッと下ろされた手でふくらはぎをガシッと掴まれてしまい、動きが取れなくなる。お前、案外強引だな!? そういえば、俺を起こす時も結構しつこかったもんな!?


 佐藤日向が、淡々とした口調で更に続ける。


「だから……下僕と呼んでほしい」

「いやいやいや! 言わないからな!? 佐藤は佐藤だろ!」


 ブンブン首を横に振っても、佐藤日向は譲らなかった。


「佐藤だと、他と差別化できない。クラスにだって、佐藤は三人いる。『佐藤!』て呼ばれたら、他の佐藤が反応してしまうかもしれない。それは困る」


 珍しく長文だけど、言ってる内容おかしいからな!?


「これ、一体なにの話!?」


 佐藤日向が、祈るような目で俺を見つめた。


「井出だけの下僕……と分かる呼び方にしてほしい……!」


 頭大丈夫か、こいつ。


 ひく、と頬を引き攣らる。佐藤日向は俺をジーッと凝視したままだ。そして、見つめ合うこと、多分三十秒以上。


 これじゃいつまで経っても埒が明かないな……と、俺は抵抗を諦めることにした。だって、こいつ頑固そうなんだもん。


「……じゃあ、日向……でいいか?」

「!」


 日向が、パッと顔を上げる。

「――うん……っ」


 次の瞬間、俺は驚きの光景を目にした。


 あの終始仏頂面の強面男子が、それはそれは嬉しそうな眩い笑みを浮かべていたのだ。

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