6 失敗
三年男子、一〇〇メートル走。
いよいよ、俺の番が回ってきた。歓声が鳴り響く中、構える。右足首にグッと体重を乗せてみた。固くは感じるけど、痛くてどうしようもないってほどじゃない。これならなんとか走りきれそうだ。
防音のヘッドフォンを付けた体育委員の男子が、スターターピストルを天に掲げる。
「位置について! ヨーイ!」
パンッという小気味良い破裂音と共に、一斉に走り出した。勢いよく踏み出した瞬間、ビキッと痛みが走ったけど、耐えられる程度だ。そのまま懸命に足を前へ前へと出し、ひた走る。
俺の前を走るのは、ひとりだけ。後の奴らはあっという間に追い越した。
「井出ーっ! 走れええええ!」
別のクラスなのに、部長の山本がぴょんぴょん跳ねながら応援してくれている前を通り過ぎる。あは、山本には後で「聞こえたよ」って報告しよう。
春香ちゃんの姿がないかな、と遠目に探してみたけど、目立つ王子姫野さんしか分からない。春香ちゃんは小さいから、埋もれてしまっているのかもしれなかった。
きっとこの群衆の中で俺のことを応援してくれている筈。だったら俺のすることは、前のこいつを抜くことだ!
練習の時はこんな速くなかったところをみると、手を抜いていたパターンかもしれない。負けてなるもんか、と奥歯に力を込める。
と、次の瞬間。
「うわっ!」
「えっ!?」
前を走っていた奴が、突然目の前ですっ転んだじゃないか! うわっ、やばい!
慌てて、隣のレーンに移動しようと右足に体重をかけた。
「んぐっ!」
直後、ビキン! と右足首に激しい痛みが走り、移動が一瞬遅れる。
「うわ、危な――!」
目前に迫る生徒の身体。やば、間に合わない――!
咄嗟に上に飛ぼうとしたけど、右足が痛すぎてバランスを崩し、そのまま激突してしまった。
「うあっ!」
絡み合うように二人一緒にもんどり打つ。
「わ、悪い! 大丈夫か!?」
「お前こそ……っ」
と、そいつが慌てて俺を助け起こしてくれて、二人一緒になんとか立ち上がれた。後続組が、俺たちを追い越していく。
だけど右足を一歩踏み出した途端、俺の口から「ぎゃっ!」と悲鳴が飛び出した。
そいつは俺の足首に巻かれたテープを見ると、血相を変える。その間に、ゴール方面からワアアッという歓声が聞こえてきていた。……嘘だろ。
「うわっ、マジ!? 元々怪我してたのかよ! 救護班とこに行こう!」
「で、でも」
「ほら、肩貸すから!」
気の良さそうな他クラスのそいつが、動こうとしない俺の腕を掴んで自分の首の後ろに回す。放送席の横に設置された救護班の元まで連れて行かれると、「悪かったな」ともう一度謝った後、立ち去っていった。
中年の男の保険医が、俺の足を見て「うわっ」と小さく呻く。
「元々捻挫してたの? こんなので走っちゃ駄目だよ!」
「……すみません」
「急速で冷やすから。すぐに病院行った方がいいよ。親御さん呼ぶ?」
ふる、と小さく首を横に振った。
「いえ……元々今日これの後に整形外科に行くつもりだったんで」
「歩ける? 先生が車で送ってもいいんだけど、まだこっちが終わらないからなあ」
「あ、いえ、テーピングしてもらえたら歩けます」
保険医が、申し訳なさそうに笑う。
「ごめんなー。井出、担任には伝えておくから、今日は早退しろ。これ、放っておくと拙いかもしれないから」
「はい……」
応急処置してもらう間にも、スターターピストルの破裂音と、生徒たちの大歓声は続いていた。ぽつん、と取り残された気持ちに陥る。
中学の時、度々感じることがあった、あの嫌な感覚と一緒だった。
――最後まで完走もできず、告白もできず、まさかの早退。
全部自分のせいじゃない。だからといって、昨日のは佐藤日向のせいばかりじゃないし、今だって転んだ奴が悪意があってやった訳じゃない。
分かる、分かるけど――悔しい。虚しい。俺は何のためにここまで……!
俯いたまま唇を噛み締めている俺を見て保険医は俺の頭をぐしゃ、と撫でたけど、何も言わなかった。
◇
グルグルにテーピングして固定してもらった後、トボトボと着替えをしに教室に向かう。
ワアア! と盛り上がる生徒たちの後ろ姿を尻目に、深い溜息を吐いた。
……格好悪いところ、見られちゃったかな。俺のせいじゃないし、あのまま走れたところで一位になれたかは今となっては分からない。だけど、どうしようもないのに気持ちは収まらなくて、どんどん沈んでいく。
「はあ……」
ふと、なんとなく一年が固まって応援している場所に目をやる。
次の瞬間、驚きの光景が視界に飛び込んできた。
「……え?」
背中を向けて応援する一年生の団体。そこから数歩下がったところで、こちらに背を向けて立っている後ろ姿は、どう見ても春香ちゃんだ。長い髪を見たらすぐに分かる。
だけど、だけど。
春香ちゃんの隣には、何故か男子生徒の後ろ姿があるじゃないか。そこまで高くない身長、細身の身体。しょっちゅう見てるから、間違えようがない。
「相澤……? なんで」
相澤と春香ちゃんの距離は近く、二の腕同士が今にもくっつきそうになっている。
と、春香ちゃんの手が、ぶらんと下がった相澤の手を可愛く小さく握ったじゃないか。
「え」
相澤は驚いたようにビクッと反応した後、その手を離すことなく逆に握り返す。
二人は目配せするように顔を見合わせると、微笑み合った。
「……まさか、足が速い人に憧れるって言ってたのって」
呟きが漏れる。
見ている光景が信じられなくて、呆然と立ち尽くすしかなかった。
◇
ショックから覚めやらぬまま、段々と重く痛み始める足を引きずって、校舎内に入る。
当たり前だけど校舎内は閑散としていて、外から響いてくる楽しそうな歓声を聞いているとどんどん惨めな気持ちになってきた。
しかも、三年の教室は四階だ。
「くそ……っ」
毒づきながら、手すりに体重を掛けながら一段一段上っていく。瞼がやけに熱く感じて、喉も痛む。唇を噛み締めて、必死で涙を堪えた。
踊り場で休憩を挟みつつ、ゆっくり上っていく。怪我をした場所はますます痛くなり、体重を乗せると呻き声が漏れた。
――いっつも俺は、こんなんばっかだ。
自分が情けなくて、恥ずかしくなってきた。何が「脈アリかも」だ。そもそも相手にすらされてなかったのに、馬鹿みたいだ。
折角、勇気を出せると思ったのに。結局、いつまで経っても俺は駄目な奴でしかない。
「うぐ……っ」
どうにかようやく、四階まで辿り着く。まだ教室に行って着替えて、更に今来た道を戻らないといけないと考えると、くらりとした。
だけど、たらたらしてると誰か戻って来るかもしれない。あんな情けないところを見られた上に、ちょっと涙ぐんでたなんてバレたら、恥ずかしくて耐えられない。
壁に手を突きながら、教室に近付いていく。
教室のドアは閉まっていた。
「……ってえ」
ズキンズキンと鼓動をしているように主張してくる足首に極力体重がかからないように立ち、ドアを開く。
そろそろ、本気で痛い。早く医者に行って痛み止めをもらわないと、痛みでも涙が出そうだった。
「……ズッ」
いや、もうちょっと出ているかもしれない。
感情と痛みがぐちゃぐちゃにない交ぜになって、考えがまとまらない。
と、俯きながら歩いていた俺の名を呼び止める存在があった。
「――井出?」
「え」
顔を上げる。
スケッチブックと鉛筆を片手に席に座ってこちらを振り向いているのは、佐藤日向だった。
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