5 体育祭
家に着く頃には、俺の右足首はパンパンに腫れてしまっていた。
「嘘だろ……明日どうすんだよ、これ」
ぷっくりと赤くなった、元はくるぶしがあった辺りに手を触れると、驚くほど熱い。慌ててスマホで検索すると、炎症には冷やすといいとあった。
「いて……っ」
足を引き摺りながらも、なんとか冷蔵庫に辿り着く。母さんが「いつか使うかもしれないし」と溜め込んでいる保冷剤を、冷凍庫から取り出した。
こんな時に限って、両親は仕事で不在。帰りは少し遅くなると言われている。ならひとりで病院に行こうかとも思ったけど、連れて行ってくれる足がないと、歩いて十五分は掛かる駅前の整形外科に辿り着ける自信は一切ない。
「マジかよ……え、これ、詰んだ? 走れる?」
頭の中が、明日の体育祭で一位になれないかもしれない、という予感めいた不安で占められていく。
折角、半月間毎日頑張ったのに。努力した結果、勇気が湧いてビビリな俺でも告白できそうだと思っていたのに。
無理やり自分を追い込まないと、俺は他の人が自然にできることすら行動に移せないヘタレなんだ――。
自分が情けなくて悔しくて、キンキンに冷えた保冷剤を腫れた箇所に当てながら、膝の間に顔を
◇
翌朝。
湿布を貼って寝たお陰で、昨日よりは腫れは引いていた。これならなんとかいけるかもしれない。
だけど、左右差を比べると明らかに腫れている。
ということで、俺は仕事前でバタバタしている母さんに声を掛け、足首をきっちりとテープで固定してもらった。
「ちょっと
母さんは心配そうに聞いてきたけど、今日ばかりはどうしても外せない。
「だって、高校最後の体育祭で他の奴らに迷惑は掛けられないじゃん」
「そりゃそうかもだけど……」
まだ渋っている母さんに、ニカッと笑ってみせた。
「今日終わったら、ちゃんと病院に行くから」
母さんは心配そうな表情だったけど、体育祭に向けて走り込みをしていたのを知っているだけに、無下に行くなとも言えなかったらしい。
「……じゃあお金と保険証、ちゃんと持っていきなさいよ」
「はいはい、分かってるって」
母さんに三千円を渡され、素直に財布にしまった。
ゆっくりと立ち上がる。ガチガチに固められて違和感はあるものの、動かすことで起こる痛みは少ない。
「ん、これなら大丈夫そうだよ」
「本当に無理はしないでね。捻挫だからって馬鹿にしちゃ駄目よ」
「はーい」
このまま家にいても母さんに心配されるだけなのは分かっていたので、少し早いけど家を出ることにした。
玄関を開けると、空は快晴。朝の空気は徐々に湿り気を帯びてきているけど、梅雨前なのでそこまで重く絡みつく感じもない。
「よーし、頑張るぞ!」
心のどこかで「一位になれなかったらどうしよう」とか、「告白できても振られたらどうしよう」なんていう不安からは目を逸らしつつ、のんびり駅へと向かったのだった。
◇
そして始まった、高校生活最後の体育祭。
お世辞にもまだクラスに馴染んだとは言えない俺だったけど、一緒に応援をしたりしている内に、少しずつ団結力が出てくる。
あ、こういうの、なんかいいかも。
日頃は話すことのない陽キャ体育会系の奴らに混じって笑っていることに、感慨深いものを覚えた。
ふと、佐藤日向も応援してるのかな、と姿を探してみる。だけど、佐藤日向の姿は見当たらなかった。まあ、あいつこそ俺よりこういうのは苦手そうだもんな、と思い、すぐにそのことは忘れる。
一年生の一〇〇メートル走が始まったので、映研の後輩の勇姿を見ようとあの子たちの姿を探した。と、こちらはすんなり見つかる。
女子の一〇〇メートル走で圧巻の走りを見せたのは、王子姫野さんだった。さすが元陸上部なだけある。誰にも追従させない俊足を見せつけ、女子の黄色い声の凄さといったらそりゃあとんでもないものだった。王子というあだ名にも納得だ。滅茶苦茶格好いい。
膝を悪くしたせいで高校は陸上部に入らなかったと聞いていたけど、そんなことなんて感じさせない走りで俺は素直に感動する。何かに優れている姿は、それだけで見ている人間に感銘を与えるんだな、なんてちょっとポエミーなことを思ってしまった。
で、お待ちかねの春香ちゃんは八坂さんと同じ班。二人ともとても一所懸命顔を真っ赤にして走っていたけど、驚くほどの鈍足だった。それでもなんとか走り切ると、二人で肩を叩き合って健闘を称える姿に、なんとなくお父さん的な気持ちになってジン、と目頭が熱くなる。
青春っていいなあ……。
貴重な青い時間に踏み入ることを避けてきた俺にとって、あの子たちの純粋に楽しむ姿は眩しいものだった。なんか老人みたいだけど、本当にそう思ったんだ。
そして、次に始まったのは一年男子の一〇〇メートル走。走る速度が女子とは違うなあ、と感心して眺めていたら、次の走者の列に並んだ相澤の姿を見つけた。並んでいる五人の中で一番小さくて細い相澤を見て、心の中で「頑張れ!」と応援する。なんかこう、庇護欲を誘うんだよな、相澤って。
そして、合図のスターターピストルがパンッ! と甲高い破裂音を出す。
と、驚くべきことが起きた。
最初は並走していた相澤が、半ばほどからぐんぐん前に出てきたのだ。
「おおーっ!? 相澤はええっ!」
やばい、格好いいじゃんうちの後輩! 気が付けば、笑顔で「相澤ーっ! いけー!」と叫んでいた。
相澤の足の回転は落ちることなく、後続組とどんどん距離が広がっていく。そのまま圧倒的な差でゴールテープを切った相澤を見て、思わず拍手を送った。見物していた生徒たちも、相澤の圧巻の走りっぷりに大興奮な様子を見せている。
なんだあいつ、足滅茶苦茶早いじゃん!
先日、部活中にみんなが「足が早い人がいい」と言っていた時、恥ずかしそうに俯いていた姿を思い出して納得する。自分の足が速いのを理解していたからこそ、自分が褒められた気になってしまって照れていたってことか。はは、相澤の奴、可愛いなあ。
知らない間に笑みを浮かべていた俺は、「これは自分もちゃんといいところを見せないと!」と気合いを入れ直して頬をパンパンと軽く叩いた。
春香ちゃんへの告白の為に始めた走り込み。一位にならないと告白できないなんて縛りを入れたのは、どこかで「告白できなかったけど仕方ない」という逃げ道を用意していたからなんじゃないか、と唐突に気付く。
「……そっか、頑張ったところを見せられたら、別にそれでいいじゃん」
一所懸命走ったところを見せよう。俺はここまで頑張ったんだっていう自信がきっと、告白の勇気を与えてくれる筈だから。
『――次は三年男子、一〇〇メートル走です。校門前に集合してください』
放送席が、呼び出しのアナウンスを始める。
「――よし!」
頑張って走れたら、順位は何であれ、春香ちゃんに告白しよう。
決意も新たに、固められた足首の違和感からは目を逸らして、集合場所へと向かったのだった。
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