4 スケッチブック
足許に突然滑り込んできた、数冊のスケッチブック。
この間、春香ちゃんに「絵が上手な人ってどう思います?」と聞かれたことを、唐突に思い出した。なんか縁があるな、なんて一瞬考える。
「……なにこれ?」
廊下の方に目を向けた。男子の制服を着た人の腕が、廊下に散乱している紙を懸命に掻き集めているところが見える。どうやら、あの人がこのスケッチブックを床にぶち撒けてしまったらしい。
拾ってあげよう、と屈んでスケッチブックを掴み上げる。すると拾い上げた際、間に挟まっていたらしい画用紙がヒラヒラと廊下の方に向かって飛んでいくじゃないか。
「あ」
人物画かな。一瞬だけど、鉛筆で描かれた横顔のバストアップが見えた気がする。というか、そんな呑気なことを言ってる場合じゃない!
「ちょーっ!」
スケッチブックを腕に抱えて、画用紙を追いかけた。まるで意思があるかのように、舞いながら教室の外に移動していく画用紙。廊下の窓が開いているから、あの風に乗ってしまったのかもしれない。
このままだと、外まで飛んでいきそうだ。俺が拾った物が外に飛んで行っちゃったら、どう考えたって俺のせいじゃん!
「わーっ! 待て待て!」
窓の外に今にも飛び出していきそうな画用紙目掛け、慌てて駆け寄ろうとした次の瞬間。
視界一杯に広い背中が広がったかと思うと、顔面をドン! と思い切りぶつける。
「ぶわっ!」
勢い余って後ろに跳ね返された俺は、手から床にバサリと落ちたスケッチブックを思い切り踏んづけてしまった。
そのままズルンと滑ると、右足首がグキッとあらぬ方向に曲がる。まるでアイススケートをしているようにスケッチブックと一緒に仰向けにひっくり返ると、思い切りケツと背中を床に打ち付けてしまった。
「ぎゃっ!」
ケツの骨から脳天に響くような衝撃に、一瞬息が止まる。くお……っ!
「いてて……っ」
滅茶苦茶痛い。
チカチカする目を何度も瞬きして慣らすと、スケッチブックをまだ踏みつけたままなことに気付いた。
スケッチブックのページは開き、下敷きになった中がグシャッと折れてしまっているのが見える。わーっ! やばい!
急いで手を伸ばした。
「わ、悪い! わざとじゃ――」
と、次の瞬間。
「――見るなッ!」
「えっ」
突然響いた、鋭く静止する怒鳴り声。ビビリな俺は、ビクッと身体を震わせ動きを止める。
俺の足許に膝を突いてスケッチブックとバラバラになった画用紙を腕に抱き寄せているのは、俺の隣の席の寡黙強面男子、佐藤日向だった。
佐藤日向は、苛ついた様子で俺に踏まれたままのスケッチブックを強引に引っ張り、回収する。
その動きに、ズキン、と足首が傷んだ。……ん?
だけど、今はそれどころじゃない。俺は人の大事な物を足蹴にしてしまったんだから。
「あ、あの、佐藤! ごめん、俺、その、拾おうと思ったんだけど踏んじゃって……っ」
開いていたスケッチブックも腕に抱え直した佐藤日向が、いつもよりも更に恐ろしげな雰囲気を纏いながら、ぼそっと答える。
「……気にしないでいいから」
「で、でも、」
「……悪いのは落とした俺だし」
佐藤日向の表情は相変わらず凶悪と言っても過言じゃないほど怖いものだったけど、喋っている内容から推測すると、多分見た目ほど怒っていない。
「あの……。ご、ごめんな?」
へらりと笑うと、佐藤日向は小さく首を横に振った。
「……大丈夫だから」
「あ、そう……? ならよかった……はは」
相変わらず端整で男らしい顔の中心には不機嫌そうな皴ができているけど、やっぱり話している内容はさほど怖くない。
尻もちを突いている俺の横で、佐藤日向はとんとんとスケッチブックの束を床で揃える。
……これ、やっぱり佐藤日向の私物だよな?
「あの、さ……。佐藤って、絵、描くの?」
と、何故か佐藤日向が切れ長の目を見開き、鋭い横目で俺に一瞥をくれたじゃないか。え、な、なに!? 何か変なこと言ったか、俺!?
ふうー、と長い息を吐いた佐藤日向が、相変わらずの低い抑揚のない声で答える。
「……ああ、描いてる。これは、俺が描いたやつ」
「あ、そう、なんだ? ええとその……どんなの描いてるんだ?」
すると、佐藤日向が今度はギロリと睨んだ。だ、だからっ、怖いって! 何でいちいち睨まれるんだよ!? やっぱり踏んだのを怒ってるんじゃないのか!?
「……風景とか、人物とか」
あ、普通に答えた。
ビビリな俺は、恐ろしげなものに対峙すると心臓がすぐにバクバクいう。息がし辛いほどに主張する心臓の存在を感じながら、精一杯愛想笑いを浮かべた。
「へ、へえ! いいな! 俺、絵のレベルまじで画伯だからさ、絵が描ける人って尊敬するよ!」
「……画伯?」
あれ? これって一般的な言い方じゃないのか?
へらへらしたまま頷く。
「あ、うん。画伯って言わない? 絵が下手くそな人のこと」
「……いや。上手い人のこと、だろ?」
「あ、あはは、いやまあそうなんだけどっ」
「……」
無言で俺を不機嫌そうに見つめる、佐藤日向。……うああっ! この無言の圧力! 辛いよ!
「テ、テレビで皮肉ってるのが有名になったやつだよ、あは、はははっ」
「……そうか」
「うんうん!」
駄目だ、もう辛くて仕方ない。
懸命に笑顔をキープしたまま、俺はよいしょと立ち上がることにした。立った瞬間、右足首がズキンと痛む。……いやいや、え、待って?
俺の横に膝を突いていた佐藤日向も、倣うようにすっと立ち上がった。一瞬で見下される形になってしまう。
内心「チクショー!」と毒付きながら、できる限り見上げると、佐藤の二の腕をポンと叩いた。
「いや本当、マジでごめんな! じゃ、また明日!」
「……また、明日」
やっぱり眉間に皺は寄ったままだけど、まともな返事をされる。……よく分かんない奴だよな、佐藤日向って……。
別れの挨拶も済んだのに何故か一向に動こうとしない佐藤日向に、作り笑顔で「じゃっ!」と手を振り背中を向けた。
――ふう、やっと脱出だよ! なんであんなにずっと機嫌悪そうなの!? こ、怖かったー!
床に付ける度にズクンという右足に嫌な予感を覚えながらも、無事に立ち去れたことに安堵を覚える。
ふと、背中に視線を感じて何気なく振り返った。
廊下に仁王立ちして俺を見ている佐藤日向と、目が合う。
俺がもう一度手を振ると、佐藤日向はどこかぼんやりとした様子で、反応を示すことなく教室の中に消えていったのだった。
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