岐路

「……夏希ちゃん、ごめんね」

 ボートへよじ登ろうとする夏希にフカヒレがポツリと声をかけた。

「何が?」

 首を傾げる夏希は不思議そうだ。

 彼女は何故フカヒレが申し訳なさそうなのか本当に理解ができていなかった。

 フカヒレが小さく口籠ってから、

「本当は俺、夜の海が人間の体には毒だって知ってたから」

 と、懺悔するように言葉を吐きだせば、夏希は、

「毒って……言いすぎだよ。海に入りたいって言いだしたのは私だし、自分で我儘を言って体を冷やしただけなんだから、フカヒレさんが気負う必要はないんだよ」

 と笑い飛ばす。

 そして、夏希はそれでも落ち込みがちなフカヒレに手招きをすると自分の元へ呼び寄せた。

「フカヒレさんは優しいね。でも、止めときゃよかった、ああしてやればよかったって、何でも自分のせいにする必要はないんだよ。そうじゃなきゃ、無鉄砲でおバカなことばかりする私に胃を痛め続ける羽目になっちゃうから」

 そういう優しすぎるところも愛しいけどね、と付け足して、夏希がフカヒレの唇に自分の唇を重ねる。

 数秒間だけくっつけて、それから離れると幸せそうに微笑んだ。

「フカヒレさんのこと、凄く好きだよ。心の底から大切で、愛してる。だから、また元気になれたら笑ってね。優しい笑顔がフカヒレさんの表情の中で一番好きだからさ」

 照れながら愛を語る夏希はキラキラと輝いている。

 それを見ていると夏希への愛おしさが増すと同時に、フカヒレは何があっても、どうしても彼女から離れたくなくなってしまった。

 絶対に同じ世界で生きてほしくなった。

「ほら、そろそろ帰ろうか」

 ボートに手をかける彼女に頷くことができない。

「嫌だ」

 ポツリと呟くフカヒレが夏希を後ろから抱き締めて自分の方へ引き寄せ、ボートをトンと押しのける。

 ボートがゆっくりと流れて行って、夏希の手には届かない場所へ去ってしまった。

「フカヒレさん? あのさ、あんまり言わないようにしてたけど、すぐに落ち込んだり沈んだりしてて今日はなんか変だよ。何があったの?」

 後ろから抱き着かれたまま、夏希が爆弾処理でもするように慎重に言葉を出す。

 不安でドキドキと胸を鳴らす夏希にフカヒレは何も答えず、代わりに彼女をクルリとその場で半回転させて自分の方へ向かせると、ポシェットの中から例の過剰梱包した荷物を取り出した。

「フカヒレさん、これは?」

 フカヒレに従って封を解いた夏希の手元には真っ赤な液体の入った小瓶がある。

「夏希ちゃん、それは、人間が人魚になる薬なんだ。本当だよ。それで人魚になった元人間を知っているし、なんなら、友達のお父さんだったりするから」

 薬の正体に目を丸くし、驚いて言葉を失う夏希に、フカヒレはポツリポツリと独白を続ける。

 夏希が人間ではなく人魚だったらいいなと思っていたこと。

 一緒に里で暮らしてほしいこと。

 薬を飲んでもらわなければ夏以外は会えなくなってしまうこと。

 人魚になれば人間には戻れなくなってしまうこと。

 本当は隠していたかった薬のデメリット、すなわち、彼女が人魚になることで失うようになる様々なものについても包み隠さず語った。

 自分の願望や焦り、恐怖、夏希への思いを切々と語るフカヒレの言葉はたまに途切れそうになっていたが、それでも最後まで話すと俯いた。

 目元からは雫が溢れていて、数滴が頬を伝って海に落ちる。

 それを気付かれまいと必死になって肩を震わせ、堪えていた。

「俺、夏希ちゃんを帰さないことだってできるんだ。腕だって、放そうと思えば放せるんだ」

 小さく低い声は震えていて、ゆっくりと海の底へ落ちていくような響きがある。

「それは、脅し?」

 フカヒレはブンブンと首を横に振った。

 周囲に涙が散って海と一体化する。

「俺、飲むなら夏希ちゃんの意思で飲んで欲しい。でも、やっぱり嫌われても何でもいいから側に居て欲しくて、だけど、傷つけるのは絶対に嫌だ」

 チグハグに出した言葉の中で感情が渋滞を起こしている。

 何が一番の願いで夏希に伝えるべき言葉なのか、まるで理解できていないようだ。

 言葉を吐きだしたきり嗚咽しか漏らすことができなくなって、それでもギュッと抱き着いてくるフカヒレに夏希は強い愛情を感じた。

『そっか。このことがあったから、フカヒレさんはずっと元気がなかったのか。こんなに迷って、一生懸命、考えていてくれたのか。フカヒレさんは優しくて素直でかわいくて、思慮深くて素敵だな』

 今夜あからさまに落ち込んでいたのはフカヒレの方だが、実は夏希も時々落ち込んでいて、その度に彼と触れ合うことで癒されていた。

 傷心の理由はフカヒレと似たようなもので、深夜の海をスイスイと気持ちよさそうに泳ぎ、人魚の愛情表現を語り、癖のように海に潜り込んでクルリと回る彼に魅了され、その度に自分との格差を思い知らされたからだ。

 自分も人魚になって一緒に海の中を泳ぎ回ってみたかったし、水中でハグをしたり、噛み合ったりして見たかった。

 フカヒレに心配も迷惑もかけず、自由に一緒の時間を過ごして屈託なく笑い合いたかった。

 それに、そもそも夏希には人外への強い憧れがある。

 強靭な肉体を持つ人魚が格好良くて、自分も同じ存在になれたらと物思いにふけることも少なくなかった。

 加えて夏希は人間が嫌いであるし、自分の所属する世界にも未練がない。

 自分を育てて愛してくれた両親には感謝しており、愛情も感じているが、フカヒレとの将来を天秤にかけることはできなかった。

 夏希の場合、薬を渡された時点で答えは決まったようなものだ。

『薬を渡してもらえてすごく嬉しかったのに、さっきは意地悪な言い方しちゃったな。いくら執着心強めの不安がるフカヒレさんが最高にかわいかったからって、よくなかったよね。自分の悪いとこ、反省しなくちゃ』

 自分自身に苦笑いを浮かべ、ため息を吐く。

 それから、言葉で「ああだ」「こうだ」と語るよりも先に薬を飲んでしまった方が早かろうと夏希は瓶を開け、コクリと中身を飲み込んだ。

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