生物としての差異
いつもの岩陰が水平線に被さって見えるか見えないかのギリギリを攻める位置へ来たところで、フカヒレはゆっくりと静止した。
仰向けに寝転がる夏希に合わせてフカヒレも水面で寝転がり、プカリと浮く。
キュッと大切そうに紐を持って夜空を眺めた。
「星が綺麗だね、夏希ちゃん。今夜は満月で光量も多いから辺りも明るく見えていいね」
「そうね、フカヒレさん。私、星空は好きよ。それに、星空を映した海も好き」
空だけでなく底の見えない夜の海やフカヒレのことも眺めたくてモゾリと寝返りを打つ。
するとバランスが崩れてボートがタプンと水面を波立たせながら大きく揺れた。
フカヒレが慌てて起き上がり、ボートがひっくり返らないように押さえる。
「危ないよ、夏希ちゃん」
心配そうな表情をするフカヒレだが、夏希はむぅっと口を尖らせた。
「だって、海をみたかったんだもの。フカヒレさん、羨ましいな。私も海に入りたい」
そもそも、フカヒレと海で遊ぶのにボートを用いることになったのは夏希が泳げず、かつ彼の背に乗るには狂暴な背びれがついていて危ないからだった。
泳げない夏希だが水に入ることは好きなので、つい頬を膨らませてわがままを言ってしまう。
すると、むくれた夏希の頬をフカヒレが優しく撫でた。
「それなら、ちょっとだけ入る? 俺、夏希ちゃんのこと掴んでてあげるからさ、泳げなくても怖くないよ」
柔らかな態度で提案をしてくれるフカヒレに夏希は恥ずかしそうに視線を落とす。
それから、
「わがまま言ってごめんね。ありがとう」
と礼を言い、トプンと波を立てて海水に飛び込んだ。
深夜の海はよく冷えていて、足先から胸元までが凍るような寒さに襲われた。
だが、どこまでも星空を反映した深い海でフカヒレに支えられながら浮いていると、宇宙の中で二人ぼっちになったような不思議な感覚を覚える。
遠くを見れば視界に人口の建物が入り込んでしまうから、夏希はフカヒレだけを見つめた。
フカヒレの冷水に比べれば温かい肌が恋しくて、ふわりとすり寄った。
「冷たいけどフカヒレさんは温かいし、なんか気持ち良いね。私、水に浮くのが好きなんだ。支えられて、フワフワ浮いてる感じが好きなの」
「そっか。水中でもね、似たような感じがするんだよ。踏み台なんかなくても上の方へ行けて、見渡す限りで自由に泳げない場所なんかないんだ。それでいて全身がやんわり包まれているような、支えられている感じがするからすごく気持ちが良いんだよ。それで、俺たちも水が冷たいと感じる時はあるから、ギュッと大切な人と引っ付き合うんだ。きっと、水面に浮いて抱き締め合うのなんかよりも、ずっと気持ちが良いよ」
気がつけばフカヒレは人魚として水中を過ごす素晴らしさを語っていた。
少しでも夏希が人魚になりたいと願ってくれるように。
深海で一生を過ごしたいと思ってくれるように。
そんなフカヒレの心を知っているのか、あるいは何も気がついていないのか、夏希が羨ましいなと笑う。
ところで、フカヒレに緩く支えられたまま縦に浮き、肩から上だけを水面から出している夏希は下半身が夜の海で塗りつぶされて見えなくなっており、まるで人魚のようだ。
夏希の姿が理想に重なるほど現実とのギャップが酷くなる。
彼の心臓の奥底にあるのは癒しを求める心か、あるいは夏希に対する執着心か。
胸が切なく締め付けられて、フカヒレはギュウッと覆い被さるように彼女を抱き締めた。
「どうしたの、フカヒレさん。甘えたくなっちゃった? それとも、支えてくれてるの? でも、身動きがとりにくいよ」
少し様子のおかしいフカヒレに夏希が笑って、トン、トンとゆっくり背びれのすぐ隣にある肌を撫でる。
温かくて少しふやけた、夏希の優しい手のひらだ。
フカヒレは自分の不安定さをおどけた態度で解消しようと微笑む夏希が愛おしくて、彼女にキスをしたくなった。
だが、きっと今のフカヒレは軽いキスでは止まれない。
夏希が欲しくて、深いキスをしてしまうだろう。
人魚のザラついた凶悪な舌で夏希の柔らかい口内を荒らし、脆い舌を抉ってしまうのが怖かったからやめておいた。
『そっか。そうだな。夏希ちゃんは人魚じゃないから、俺が力いっぱい愛すのは許されないんだな』
我慢をするには気力がいる。
いつでも平静を装って大丈夫だよと笑う姿は美しかろうが、実際にそのようなことをできる人間や人魚は存在しない。
苦しさを無視して我慢を続ければ、いつか破綻する。
気力がなくなった瞬間に、これまで溜め込んでいた欲や苦痛が、無視をしていた傷心が噴き出してしまう。
深夜のロマンチックな海がかえって感傷を誘うのか、普段、一生懸命に夏希に気を遣って接していたフカヒレは寂しさに支配されて堪らなくなった。
何か一つでもいいから、心の奥底でゆっくりと濁っている欲を叶えたかった。
フカヒレは覆い被さるようにギュッと抱き着いたまま、小さく唇を開いた。
「ねえ、夏希ちゃん。人魚はさ、暗い海の底で二人っきりになって愛情表現をするんだ。似たようなこと、してもいい?」
「いいけど……」
どういうことをするの? と、夏希が問い返す間もなく、フカヒレは上から彼女の全身に圧をかけて押し倒し、一緒に水中へ沈みこんだ。
驚いた彼女がギュッと目を瞑り、口を一の字に結んで呼吸を止める。
溺れることを怖がって、全身でギュッとフカヒレにしがみついた。
フカヒレの魚部分に絡まるのは夏希の二本に分かれた足だ。
必死であるからか力強くて、フカヒレは少し嬉しかった。
時間にしてせいぜい十数秒、フカヒレは自分からも魚部分を夏希の足に絡めて彼女を見つめると、すぐに浮かび上がって彼女の顔を水面から上に出させた。
水中を出てからも夏希は酷く咳き込んでいて、目からはポロポロと涙を溢している。
全身がグショグショに濡れていて、鼻水や唾液が垂れていても分からないほどだ。
夏希がワタワタともがきながら顔を拭っていると、フカヒレが水中からポシェットを引き上げ、そこからハンカチを取り出して渡した。
自分の容姿も気になるが、何気に貰ったばかりの大切なバレッタの行方も気がかりだったらしい。
落としてしまっていないかと不安がる夏希だったが、顔面を拭っている間にフカヒレが頬にへばり付いた髪をよけて外れかけたバレッタをパチンと止め直すと、ホッと息を吐いた。
「苦しい、よね。ごめんね」
フカヒレは人間が水中に適応できないことを知っていた。
だが、急とはいえ水に潜り、一分と満たない時間を水中で過ごしただけで顔面から体液を溢れさせ、ゴホゴホと咳を繰り返すような酷い状態になるとまでは思っていなかった。
『俺はよほどじゃないと強制的に息ができなくなる環境なんてなかったから、知らなかった。でも、言い訳だよな。人間と人魚は違う生き物で、人間のことは丁重に扱わなきゃいけないって知ってたんだから』
軽はずみに行動して苦しませてしまったことが申し訳なくて、しょぼんと落ち込む。
夏希を支えたまま目線を下げるフカヒレの頬を、ようやく呼吸等が落ち着いた彼女が優しく撫でた。
「びっくりしたけど、すぐに引き上げてもらったから平気。でも、もう急な事はしちゃ駄目よ」
ニッと笑う夏希にフカヒレがコクンと頷く。
夏希はフカヒレの濡れた髪をゆっくりと撫で続けた。
「ねえ、フカヒレさん。一緒に海の中で抱き合うのが愛情表現なの?」
さきほどの行為について解説が欲しくて、夏希がコテンと首を傾げればフカヒレがフルフルと首を横に振る。
「ううん。ちょっと違うよ。水中で尾ひれを絡め合って、ギュって抱き合うのが本来の愛情表現なんだ。魚部分は大切な人にしか触らせないって言ったでしょ。それを絡め合うのは、なんだろうな、『愛してる』以上の言葉と同等の価値があるんだ。人間なら……なんだろう……過激といえば過激な行為だけど、強く抱き締め合うことの延長線上にある行為だから性行為ではないんだよな」
フカヒレ自身も小さく首を傾げながら、きっと正確には伝わらないだろう言葉を紡ぐ。
夏希も上手く理解はできないものの「ふむふむ」と頷いて真剣に聞いた。
「もっと言うと、本当はさ、一番強い愛情表現をしたかったんだ。尾の絡め愛じゃない、もっと明確で強い愛情表現。人間には無理だろうけど」
落ち込んだ言葉に棘は無かったが、人魚という存在を知った今では人間である自分がちょっとしたコンプレックスになっている夏希がムッと口を尖らせる。
「本当に無理なの? もう一回潜るくらいなら平気なんだけど。私、泳げないだけで水は嫌いじゃないし」
フン! フン! と意気込んで、沈むことさえ分かっていれば、もう少し水の中にいられる! と言い張る夏希だが、モジモジと少し期待した態度のフカヒレに、
「本当は、本当に一番したかったのは、海の中で尾ひれや魚の部分を何度も噛み合う愛情表現なんだ。好きだよ、好きだよ、好きだよって。多少、血が出ても平気だよ。人魚は強いから。いっそ噛み跡が残るまで噛み合って、仲間に見せびらかすんだ。俺、人間の足でもいいし甘噛みでもいいから、ほんの少し夏希ちゃんを齧りたいな」
と告げられ、ふいっと目を逸らした。
「ごめんね、フカヒレさん。多分、人間の足が齧られたら大量出血になって死んじゃうと思う。その、甘噛みでも厳しいんじゃないかな、フカヒレさんの場合」
夏希の脳裏によぎるのは、以前に見た二重になっているフカヒレの凶暴で美しい牙だ。
軽く肌を挟む行為ですら、大変な傷を生みかねない。
「そうだよね」
申し訳なさそうな夏希にフカヒレも苦笑いを浮かべて視線を下げる。
あんまりにも沈むフカヒレが可哀想で、
「ねえ、フカヒレさん。人間は水の中であんまり身動き取れないからさ、プカリと浮くフカヒレさんの尾を噛むよ。それじゃ駄目?」
と、問いかければ彼が嬉しそうに笑った。
「ううん。ダメじゃないよ、ありがとう。あのさ、人間の歯で人魚の尾が傷つくことってあり得ないからさ、どうせなら思いきり噛んで欲しい。ぎゅーって」
「いいけど、そしたら絶対に変な顔になるから見ないでね」
「嫌だ。力いっぱい噛んでくれるのは愛情の証だから、見るよ」
力強い言葉と瞳でキッパリと宣言すれば、夏希がギョッと目を丸くする。
「ええ!? な、なんで!? だって、だって恥ずかしいよ!?」
「愛情を表現するのが、そんなに恥ずかしい事なの?」
「いや、だって変顔だよ!? 愛情というか、ただの力んだ顔だよ!?」
「変顔じゃない! 俺ら人魚の間では牙を剥き出しにしてガブッて嚙むのが最大の愛情表現になるの」
ここでもカルチャーショックが起きているのか、あるいは単なるフカヒレの性癖か、噛み方やその様子を巡って少し揉める。
照れる夏希にフカヒレはプーッとむくれると海の上に仰向けに寝転がり、モッチリとした魚部分をさらけ出した。
「一番皮膚の弱いところを噛んで。そこの、ちょっと白っぽい部分」
珍しく少し目つきを悪くしたフカヒレがペチペチと尾ひれを水面に叩きつけて催促をする。
いつも大人びているフカヒレが駄々っ子のようで少しかわいくて夏希の胸がキュンと鳴った。
「分かったよ。それじゃあ、お邪魔します」
ビート板に縋るようにしてフカヒレの魚部分を抱きかかえ、鱗の少ない腹部分にカプリと噛みつく。
通常、魚の腹というのは非常に柔らかくて人間の歯でも余裕で噛み切れるほどだが、モッチリと弾力がありながらも牙を柔らかく沈みこませて突攻撃の威力を逃すようになっている人魚の魚部分は特別製だ。
良く研いだ包丁や鋭い槍でさえ、皮膚を裂くことは叶わなさそうだった。
そのような状態であるため、フカヒレの要望通りガッツリと噛んだとて彼が怪我をすることは無いだろう。
そもそも鱗の硬い背中側では今一つ噛まれている感覚を覚えられず、噛んでいる夏希の姿も拝めないからと、フカヒレはわざわざ魚部分の中でも一番脆い場所を指定したのだ。
可能な限り力を込めてやった方が彼も喜ぶ。
しかし、やはり夏希としては、どうしても自分が可愛いと思う態度でフカヒレに接したかったらしい。
彼女は指定された魚部分をハムハムと甘噛みして、チラッとフカヒレの表情を確認した。
すると、上体を起こして夏希の姿を眺めていたフカヒレが寂しそうに眉尻を下げる。
「夏希ちゃん、俺のことそんなに好きじゃないんだ……それとも、撫でるくらいの噛みが人間の限界なの? でも、前に尾ひれを噛んだ時はもう少し強かったよね」
非難がましい視線に晒され、バツの悪くなった夏希が少しだけ噛む力を強くする。
だが、フカヒレの方は限界ギリギリの力で噛んでもらえないと気が済まないようで、何度も催促を繰り返した。
ベシベシと尾ひれで水面を叩いて催促するから、夏希の左半身が水でビシャビシャに濡れる。
『もう! フカヒレさんの我儘!!』
度重なるダメ出しや濡れる左半身にイラっとした夏希が、そのまま怒りをフカヒレの魚部分にぶつけ、ガブリと噛み千切るような勢いでかぶりついた。
人生で初といっても過言ではないほどの力で噛みつき、
「これなら文句ないだろ!」
と、眉間に皺を寄せたままでギギギと歯を揺さぶる。
そしてキッとフカヒレを睨みつけると、ようやく彼が嬉しそうに表情を明るくして、くすぐったそうにふふふと笑った。
「夏希ちゃん、そんなに俺のことが好き? 照れちゃうな」
さんざん催促していたフカヒレがモジモジとしながら口内で笑いを噛み殺しているのを見ると、
「かわいい!!」
という気持ちと、
「人の気も知らないで!」
という八つ当たりめいた気持ちが同時にやってくる。
最後の力を振り絞ってギュゥゥゥゥゥ……と噛めば、フカヒレがますます嬉しそうな表情で尾ひれをハタハタと揺らした。
夏希が口を離すとフカヒレは一度、水に潜って海の中で一回転し、それから彼女の元へ戻って来てキュッと柔らかい体を抱き締める。
先程からずっと水に浸っている上にフカヒレを噛み続けた夏希だ。
すっかり疲れて自分を支えるフカヒレにペタリともたれかかった。
「お疲れ様、夏希ちゃん。俺、嬉しかったよ。ありがとう」
「いいよ。でも、フカヒレさん、本当に痛くなかった? 最後の方は力任せに噛んでたから、心配」
いくら催促されたとはいえ力任せに噛んでしまった分、不安になってフカヒレに問いかける。
しかし、眉を下げる彼女とは対照的にフカヒレはニマリと口角を上げ、得意そうな表情になった。
「実は、全然痛くなかったけど皮膚にちょっとだけ噛み跡が残ったんだ! 嬉しい!!」
水中でハタハタと尾ひれを揺らすフカヒレは幸せそうに顔をほころばせるが、どうにも夏希は彼に共感ができない。
「それは良かった……のかな?」
キョトンと首を傾げていた夏希だが、濡れた衣服の上から急に拭いた夜風に肌をくすぐられ、ブルリと身震いをすると小さなクシャミをした。
「夏希ちゃん、寒い?」
月明かりのせいで分かりにくいが、よく見れば夏希の唇は紫になっていて体も夜風による身震い関係なく震えていた。
指先もかなりふやけている。
「うん。私も今、気がついたんだけれどね。こういうのって、どうして意識してから寒くなっちゃうんだろうね」
「不思議だね。そろそろ帰ろうか」
フカヒレの言葉にコクリと夏希が頷く。
水に入り始めてから現在まで、どのくらい時間が経過したのだろうか。
きっと、一時間も経ってはいない。
ずっと夏希と水の中で遊びたいと思っていたフカヒレだが、皮肉にも彼は夜の海で、水中に浮かぶだけで弱ってしまう人間と自分の差異を思い知った。
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