第二十二話 『現世の諸事情』


  「ここは秘密の花畑です。ベルタさんに教えてもらったんです」

「……綺麗だな……」


 俺の口から自然とこぼれた言葉は、まさにその光景を表していた。

 目の前に広がるのは、砂漠のど真ん中に佇む、鮮やかな花々が咲き誇る幻想的な花畑。

 赤、青、黄、紫――色とりどりの花々が、一面に広がっている。

 その美しさは息を呑むほど。

 花畑を取り囲む透明な何かが、ここだけを異世界に隔てる結界のように感じられる。


 俺たちはその中心に置かれた白いベンチに腰を下ろした。

 柔らかな風が花の香りを運び、ユリシアの赤色の髪を優しく揺らす。

 そして、彼女はふと笑みを浮かべた。


「どうかした?」

「いや、最近の出来事を思い出して、つい。最近、本当に楽しいことばかりなんです」


 確かにユリシアは旅に出てから笑うことが多くなった気がする。

 二年間のベテンドラでの暮らしでは、彼女がこんな風に無邪気に笑うことなど、ほとんどなかった。

 冷たいというわけではないが、彼女の表情には、どこか人生に対する興味を失ったような影が常につきまとっていた。

 中沢煌として生きたかつての俺の人生のように、心の中に閉じ込められた感情が、笑顔として表に出てくることはなかった。


「旅に出てから、毎日が本当に楽しいんです。親元を離れて、こんな風に自由に冒険することが、こんなにも素晴らしいものだなんて思ってもみませんでした!」

「そうか。良かったな、ユリシアちゃん」


 俺は彼女の言葉に、心からそう思った。

 親元を離れることが、彼女にとってどれだけの解放感をもたらしたのか、容易に想像がつく。

 ユーリアに対してもそうだが、あの家庭は無意識のうちに、子供たちに大きな期待と圧力をかけていたのだろう。

 アルフもイシアも優秀で立派な人間だが、だからこそ、娘たちにも同じような未来を期待する気持ちは理解できる。

 だが、その期待が重すぎる。

 それによって彼女たちの笑顔を奪ってしまう原因になっていたのかもしれない。


 ユリシアもまた、幼い頃から「あれをしなさい」「これをしなさい」と、親の意向に従うことを求められ、まるで駒のように動かされていたのだろう。

 それが、彼女の心に、人生の楽しさを見失わせる結果となっていたのだ。


 けれど、この旅に出てから、彼女の中に新たな感情が芽生えたことに、俺はなんとなく気づいた。

 彼女が今、こんな風に笑っていることが、何よりの証拠だ。

 

「今日は、誘ってくださり、ありがとうございます。楽しかったです!」

「ううん、俺の方こそ。無邪気なユリシアちゃんを見られて、よかったよ」

「そ、そうですか……」


 恥じらいを見せて、こっちを見てくる。

 そして、こう口にした。


「あの……」

「ん? どうした?」

「わ……私たちの関係って何ですか?」

「関係?」

「はい、以前、酒場で会った際に『俺の女』と言っていただいたじゃないですか。でも実際にそういう口約束は交わしていないと思うんですが」


 確かに、あの時、俺はユリシアを「俺の女だ」と言った。

 だが、それはあくまでルーファスさんを追い払うための方便に過ぎない。

 心からの言葉ではなかった。

 とはいえ、ユリシアのような純粋な子に嘘をつき続けるのも気が引ける。

 だが、恋人関係になるのは……何かが違う気がする。


 俺は迷い、答えを出せずにいた。


 彼女の静かな視線が俺を貫く。

 その真剣さに、俺はますます言葉を失ってしまった。

 やがて、ユリシアが意を決したように口を開く。


「……その、私はコウさんのことを恋人だと思ってます。でも、コウさんがそう思わないのであれば、それでも構いません」


 その言葉を聞いた瞬間、俺の胸に複雑な感情が湧き上がる。

 彼女は本当に素敵な人だ。

 優しい。

 面倒見も良い。

 この世界のお姉さんのような存在。

 そして、美しい顔立ちと、その姿勢。

 胸の大きさだって、彼女の魅力の一部だ。

 だが、なぜだろう。

 恋人という関係になることを考えると、何かが俺を引き止める。


 俺が中沢煌として生きていた頃、なぜか恋人を作るのを避けるようになった。

 きっかけは思い出せないが、いつの間にか大切な人を作ること自体を避けるようになっていた。

 だから、ユリシアを恋人にすることは……俺にはできない。


「えーっと、少し考える時間をもらってもいいか?」

「は、はい……」


 ユリシアが目を伏せる姿を見て、胸が締めつけられるようだった。

 あまりにも純粋な気持ちに、どう応えるべきかがわからない自分が情けなく感じた。

 

 隣に座る彼女をちらりと見ると、彼女の細い指が頬を撫で、涙を拭い去っていた。

 彼女が泣いているのだと、はっきりと理解した瞬間、胸の奥に何かが鋭く突き刺さった。


 声をかけるべきか迷っていると、ユリシアが突然、涙を浮かべた瞳で俺を見つめ返してきた。

 無理に笑顔を作ろうとしているのが痛々しくて、彼女の震える声が耳に残る。


「その……コウさんって、本当に……変態ですね! 前は私をベッドに押し倒して、今度は私のことが好きでもないのに、お出かけに誘ってくるなんて……」

「い、いや、誤解だよ。君で遊ぶつもりなんて全く……」

「じゃあ、どういうつもりなんですか!」


 初めて、彼女は俺に怒った。

 

「その……」


 言葉が出てこない。

 何かを言わなければならないのに、どうしても言葉が見つからない。


「……もういいです」


 ユリシアが立ち上がり、涙が頬を伝うのが見えた。

 その涙は、まるで俺の胸を切り裂くようだった。

 何も言えず、ただ彼女の背中を見つめるしかなかった。


「そっか……じゃあ、宿まで送っていくよ」

「いえ、大丈夫です。失礼しました」


 ユリシアは一度も振り返ることなく、静かに花畑を後にした。

 その背中が消えていくのを見つめながら、俺は深い後悔に苛まれた。

 どうすればよかったのか?

 彼女の気持ちに素直に応えるべきだったのだろうか?

 答えは依然として見つからない。


 ただ一つだけ確かなことがある

――彼女に謝らなければならない。

 

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