第二十話 『六百年来の友人』


  二万冊もの本の中から、たった一冊の鍵を見つけ出す――それはあまりにも無謀なことだと思う。

 ベルタは二ヶ月以内に攻略可能だと言い張っているが、俺にはとてもそう思えない。

 見積もりが甘すぎたのではないか?

 この本棚に並ぶ一冊一冊には強力な魔物が封印されている。

 そして次第に、この迷宮に挑む冒険者たちも消えていくはずだ。

 死の恐怖が、冒険者としての誇りよりも勝るのは、極めて自然なことなのだから。

 だから俺は二ヶ月での攻略など、ほぼ不可能に違いないと考えている。


 それでも、ベルタは頑なに二ヶ月での攻略を主張している。

 彼女が一体何を見据えているのか、俺にはまったく理解できない。

 しかし、きっと彼女の目には、俺の目に映らない何かが見えているのだろう。

 俺の知らない景色、俺の想像も及ばない未来が。

 

「試しに、一冊、手に取って開けてみなさい」

と、ベルタが静かに促す。


 彼女の言葉には、妙な冷静さと確信が宿っていた。

 俺の視線は棚に並ぶ無数の本の中から、どれを選ぶべきかをさまよう。


「ほら、ユリシアちゃん。あなたも開けてみなさい」

と、ベルタはユリシアにも同じように告げた。


 その言葉に、ユリシアは一瞬ためらうものの、やがて小さく頷いて棚へと手を伸ばした。

 俺たちが手にする本に封印魔法がかかっている確率を測る――それがベルタの狙いなのだろうか。


 二万冊の中から選び取った一冊。

 俺は静かにその表紙を開いた。

 心臓が鼓動を早める中、ページがめくられていく。

 だが、何の反応もない。

 無音のまま、ただ無機質な文字列がそこに並んでいるだけだった。


 ハズレを引いた。だが、この場合、ハズレこそが喜ぶべき結果だ。闇の中から魔物が現れることもなく、俺は安堵のため息を静かに吐いた。


――ススススッーーッーーー。


 その瞬間、微かな音が耳に届く。

 反射的に顔を上げると、隣に立っていたユリシアが目を見開いたまま硬直しているのが見えた。

 彼女の手に握られた本から、黒い霧がもくもくと立ち上り、あっという間に彼女の周囲を覆い尽くしていく。


 「ユリシア…!」


 俺が声を上げるよりも早く、闇が瞬く間に広がり、ユリシアを包み込む。

 そして、その闇は容赦なく俺たち全員をも飲み込んでいった。

 視界が闇に染まり、冷たい感触が肌にまとわりつく。

 何かが始まろうとしている。


「ユリシアちゃん、光を」

とベルタが静かに言った。

「はい」

とユリシアが応じる声は、驚くほど落ち着いていた。


 それに比べて、俺はどうだ?

 冷静になれと自分に言い聞かせようとしても、死の影が脳裏にちらついて、どうにも心が乱れてしまう。

 叫び出したい衝動を必死に抑え込むしかなかった。


 だが、目の前に立つ二人――ユリシアとベルタは違った。

 驚くほど頼り甲斐があった。

 その存在が俺の不安を少しだけ和らげてくれる。


「シャイニングライト」


 ユリシアが短く呪文を唱えると、闇に覆われた空間に一筋の光が灯る。

 その光はじわじわと広がり、暗闇を切り裂くように周囲を照らし始めた。


そして、光の中に浮かび上がったのは――人影だった。


 それは一人の男。

 二十代の若さが感じられる姿。

 肩まで伸びる黒髪を持ち、目には深い憂いが宿っている。

 彼の体は白衣に包まれており、その姿から医者か研究者のように見えた。

 しかし、その男の瞳には恐怖が色濃く映り、まるで何か恐ろしいものが背後に迫っているかのように、怯えた様子でこちらを見つめてくる。


「だ、大丈夫ですか?」


 俺は咄嗟に声をかけた。

 男は、ゆっくりと首を横に振る。

 彼がどうしてここにいるのか、その理由はまったくわからなかった。

 もしかしたら、誤ってこの封印の中に閉じ込められ、長い間ここで過ごしていたのかもしれない。


 そんな考えが頭をよぎる中、ベルタが音もなく動いた。

 まるで風のように一瞬で男との間合いを詰め、巨大な大剣を振り下ろした。

 重い打撃音が響き、埃が舞い上がり、視界が遮られる。


「なんで攻撃なんかするんですか!」


 俺は慌てて叫んだ。

 しかし、ベルタは一切気にする素振りもなく、再び男に大剣を振るう。

 何度も、何度も。


 埃が徐々に晴れていく中、男はボロボロの姿を晒していた。

 彼の白衣は裂け、血が滲んでいる。

 しかし、止めに入ろうとした俺を、ユリシアがそっと手で制した。


「ダメです、ベルタさんに任せてください」

「え、でも……」


 俺の反論を遮るように、ベルタは動かなくなった男に向かって冷たく言い放った。


「立て、ヴェルテア」


 その名を口にした瞬間、俺は驚きで息を呑んだ。

 ベルタの知り合いらしいこの男――ヴェルテア。

 だが、彼女が彼を容赦なく叩きのめしている理由が、やはり俺にはまるで理解できなかった。


「立たないと、次はトドメを刺すぞ」


 だが、見るからにボロボロな彼に、どうして立てと言うのか。

 そんな無茶を――そう思った瞬間、ヴェルテアがゆっくりと、しかし確かに立ち上がったのだ。

 その動きが先ほどとは違うことに気づく。

 彼の背中から、漆黒の尻尾が現れた。


 俺はハッとした。

 こいつは――人間じゃない。


その異変は瞬く間に加速し、ヴェルテアの容姿が変わり始めた。

 彼の瞳が赤く輝き、獰猛な妖狐の姿へと変貌を遂げる。


「妖狐ヴェルテアよ。一方的に攻めればこんな奴、楽勝だわ」

 

 ベルタの声が静寂を切り裂いた。

 彼女の言葉に応えるかのように、ヴェルテアの表情が険しくなる。

 そして、冷たく光る瞳が俺たちを睨みつける。

 その瞳に宿るのは怒りだ。

 瞬く間に、彼の姿は完全なる妖狐のものへと変わり果てた。


 その瞬間、ヴェルテアが疾風のごとくベルタに向かって飛びかかった。


「危ないっ!」

 

 ユリシアの悲鳴が響く。

 しかし、それは遅すぎた。

 闇の中から出現した巨大な大鎌が、ヴェルテアの手によって生み出され、凶器の如く振り下ろされた。

 その一撃が、ベルタに直撃する。


 ベルタは、重く倒れ込んだ。

 あまりにも突然の攻撃に、彼女でさえ対応する暇がなかったのだ。

 凄まじい技の前に、彼女は成す術もなく、地に伏せた。


 部屋に漂うのは、闇と静寂。

 そして、俺の心を締めつける深い絶望感だった。


「あとは、お前たち二人だな。」


 妖狐ヴェルテアは冷酷な目を俺たちに向け、静かに宣告した。

 ベルタでさえ圧倒される相手だ。

 これ以上ないほどのまずい状況だ。

 何故、あんな風に挑発したんだ……

 ベルタぁぁぁぁ!


 ヴェルテアは悠然とした足取りで、ゆっくりと俺たちに近づいてくる。

 俺は反射的に剣を構え、《外見変化》スキルの準備をした。

 今できる最善の策は何だ?

 またオークを呼び出すべきか?

 いや、ここは封印された空間だ。

 オークの群れが助けに来てくれる可能性は限りなく低いだろう。


 ヴェルテアの足音が、刻一刻と近づいてくる。

 俺は焦燥感に駆られ、頭の中で戦略を必死に巡らせる。

 スプリントウルフで逃げ回るか?

 いや、逃げ切れる保障はない。

 アーマードゴーレムで防御力を上げる?

 ベルタでさえ防ぎきれなかった攻撃に耐えられるとは到底思えない。


 効率と戦略を瞬時に練ろうとするたびに、俺の心臓は強く鼓動し、死の恐怖が全身を駆け巡る。

 その時だった。


 聞こえてきたのは――ベルタの声だ。


「こういう場では、戦術や効率性を求めちゃダメよ」


 妖狐ヴェルテアが声の方に振り返る。

 そこにはベルタの姿があった。

 倒れていたはずの彼女が、まるで何事もなかったかのように、無傷の状態で立っている。


「狭い空間で、敵の数や強さが不明な状況で戦う時――」

 

 ベルタは、ゆっくりとヴェルテアに向かって、焦っていた俺にそう呟きながら歩みを進めた。

 その瞳には冷徹な光が宿り、彼女の大剣は血の気を帯びていないにもかかわらず、まるで決戦の刃のように輝いて見えた。


「力同士のぶつかり合いだと思いなさい。」

 

 その瞬間、ベルタはまるで風のように疾走し、大剣を一閃させた。

 刹那、ヴェルテアの手が宙に舞い、その後、惨たらしい悲鳴が部屋中に響き渡った。


「いぎゃあぁぁぁあああ!!」


 苦痛に叫ぶヴェルテアの声が、耳をつんざく。

 しかし、ベルタは冷静そのものだ。

 彼女の動きは止まることなく、次なる一撃でヴェルテアの反対の腕を切り裂き、その勢いで胸に深い傷を刻み込んだ。

 妖狐はもがき苦しむが、その声が途絶えるのは瞬く間だった。

 彼の首は刎ねられ、闇の中に音もなく転がったのだ。

 そこから彼の叫びは消えた。


 ベルタは無傷のまま、静かに立ち尽くしていた。

 その姿は、戦場の女神の如く凛然とし、俺はただ息を呑むばかりだった。


 そして次の瞬間、景色が変わった。

 俺たちは再びロックス迷宮の三階層に戻っていた。

 あの奇妙な本を開いた時と同じ、何事もなかったかのような静けさが周囲を包み込む。


「心配しましたよ……」


 ユリシアが優しい声で言い、俺は無言で頷いた。

 ベルタはその言葉に応えるように、軽やかな笑い声を漏らし、場を和ませた。

 そして、先ほどの戦闘中に語ったことをもう一度繰り返した。


「敵の情報がない場合、己の力の強さですべてが決まるわ。相手だって同じよ。戦略なんて考えてる余裕なんてないから、最初の一撃で決着をつけるのがベストね」

「だから、あんなに妖狐を煽っていたんですか?」


 俺が疑問を投げかけると、ベルタは頷きながら答えた。


「うん、あいつ全然攻撃してこなかったからねー。ビビってたのよ、完全に。」


 正直に言えば、俺はあの場面で恐怖に駆られていた。

 戦略を第一に考えるのはベルタから教わったことだが、それが逆に俺を足止めしていた。

 考えすぎるのも良くない――今日はそれを学んだ。

 ベルタの実践的な教えが、頭に深く刻まれる。


 だが、一つだけ俺が失敗したことがあった。

 それは、あまりにもリアルに妖狐ヴェルテアの恐怖が伝わってきたことだ。

 ヴォルテアの怯えた表情には、ただならぬ恐怖が宿っていた。

 ベルタから何度も教えられた「感情に動かされるな」という言葉を思い出すが、今回ばかりはそれが上手くいかなかった。


「すみません、最初のトラップに引っかかってしまいました。」


 俺が謝ると、ベルタは疑問の表情を浮かべた。


「ん? なんのトラップ?」

「妖狐が人間の姿で怯えていたので、俺が近づこうとしたじゃないですか」

「ああ、あれね。でも、あれはトラップじゃないわよ」

「え?」


 俺は混乱した。

 あの怯えた顔が罠でないなら、一体何だったのか。


「本気で怖がってたんだよ、あいつ」


 何に恐れを抱いていたというのだ。


「六百年前の話だけど、私、一度だけあいつと戦ったことがあるのよ」


 ベルタの声が静かに響いた。


「えええっ!?」


 俺とユリシアは同時に驚きの声を上げた。

 だからあんなに怖がっていたのか……。

 だが、六百年前だと……?

 ベルタはどれだけ生きているんだ、信じられない。

 こんな幼い見た目で。


「その時に、ボコボコにしちゃったから、さっきのはきっと本気でビビってたのね」


 それを聞いて俺は思わず妖狐ヴェルテアに同情してしまった。

 六百年の歳月を経て、再びベルタに出会い、さらには俺とユリシアの戦いの教訓として利用されるとは……。

 後で、ユリシアに頼んで浄化の儀式でもしてもらおう。

 

◇◇◇


 その日、俺たちは体力も限界に達し、ロックス迷宮を後にした。

 心に残ったのは、ただ一つの疑念だった。

 俺の存在意義についてだ。


 ベルタがこれほどまでに強大だと、ロックス迷宮の攻略が簡単に思えてしまう。

 まるで、彼女一人で十分すぎるように感じた。

 ならば、ユリシアと俺がこの旅に出た意味は何だったのか。


 確信を持って歩み出したはずの道が、今では遠い記憶のように感じられ、代わりに心に巣食うのは虚無感だった。

 俺たちの旅には、果たしてどんな意味があるのだろうか。

 道の先は霧に包まれ、俺はこの旅における自分の存在価値を見失いかけていた。

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