第十九話 『大きな勝利』


 それから一週間が過ぎた。

 ベルタが示した攻略猶予の半ばが、静かに、しかし確実に過ぎ去っていった。


 その間に俺は確かに強くなった。

 身体が馴染んでいく感覚。

 研ぎ澄まされていく思考。

 そして感情の揺れ動きを抑え込む術を身につけた。

 前とは違う。

 自分でもそれをはっきりと感じている。


 しかし、この実感に浮かれてはならない。

 過去に学んだ痛みを思い出すたび、俺はその誓いを胸に刻む。

 だから、決して口にはしない。

 ただ、静かに力を蓄え、次の戦いに備えるだけだ。


 そして今日、俺はロックス迷宮への挑戦することになった。

 今まさにその入口に立っている。

 ベルタから許可を得た。

 隣にはユリシアとベルタが静かに立ち、いつものように心強い存在感を放っていた。


 目の前には、ひっそりと佇む小さな裂け目が見える。

 まるで大地がひそかに息を潜め、冒険者から身を隠している、狭い隙間だ。

 とてもこれが迷宮の入口だとは思えない。

 人一人がようやく潜り込めるほどの小さな穴に、これほどの冒険が隠されているとは、誰が想像できるだろうか。


 だが、この何気ない裂け目の向こうには、数多の冒険者が挑み、屈したロックス迷宮が広がっているのだ。

 その名が意味するものは、挑戦者を捉え、解き放つことのない迷宮の恐怖。


 足元の大地が不気味に軋む。

 俺の心臓は鼓動を早め、全身の血が逆流するような感覚に襲われる。

 これまでの訓練、そして自らの成長を信じて、俺は一歩を踏み出した。

 この裂け目の向こうには、何が待ち受けているのだろうか。

 未知への恐怖と興奮が入り混じり、俺は覚悟を決めてその不気味な穴に身を滑り込ませた。


 細く続く狭間を慎重に進むと、突然視界が広がった。

 目の前に現れたのは、思わず息を呑むほど壮麗な空間だった。

 まるで時が止まったかのような静寂の中、幾重にも重なる本棚が規則正しく並び、その光景はまさに洗練された図書館を思わせる。

 迷宮と呼ぶにはあまりにも美しく、まるで知識の殿堂とでも言うべき神聖な場所だった。

 これが、学者ロックスが築いた迷宮か――その名に違わぬ知識の迷路だと感じる。


 しかし、目を凝らしてよく見ると、空間の端には四つの通路が伸びている。

 それぞれの道は、どこまでも続くかのように同じ本棚が続き、全く同じ風景が繰り返されている。

 どちらに進んでも変わり映えしない光景に、自然と身を引き締めた。


 だが、その完璧に見える空間にも、人の手による痕跡が残されていた。

 荒らされた跡がここかしこに散見される。

 欲望に突き動かされた冒険者たちが、この知識の迷宮に足を踏み入れ、無秩序にかき乱したのだろう。

 無造作に地面に散らばる本たちが、その無情な行為の名残を物語っていた。


 しかし、それらの本を拾い上げてみても、全てのページはすでに解読不能だった。

 一度何かに濡らされたのか、文字は滲み、かつての知恵や知識を伝える術を失っている。

 偉大な学者が残したはずの書物は、今やただの紙切れ同然。

 迷宮の威厳に対する冒涜のようにも感じられるが、同時にこの場所の儚さと無常を強く感じさせた。


「このままだと肝心な『全種族事典』も解読不可能かもしれませんね」

「そんなことないわ。三階層の本棚にあった本は全て濡れていなかったわ」


 ロックス迷宮の三階層まで攻略したと言っていたから確かなのだろう。

 頼れる彼女がいることが、得体の知れない不安をかき消してくれる。

 アルフへの土産となるものを持って帰ってやれると、俺は密かに期待を膨らませていた。


 ふと、ユリシアが棚に並ぶ一冊の古びた書物に目を留め、手を伸ばした。

 だが、その瞬間、ベルタが鋭く彼女の腕を掴んだ。

 その動作は素早く、躊躇いがなかった。

 驚きに目を見開いたユリシアが、ベルタの厳しい眼差しと向き合う。


「その本に触れてはダメよ。」


 ベルタの声は、まるで氷の刃が空気を裂くかのような冷たさを帯びていた。

 その一言が、迷宮の沈黙を深くえぐり、俺たちの間に重い緊張をもたらした。


「え? なぜですか、ベルタさん」

「この一帯の本には全て、強力な魔力が宿っている。それも尋常じゃないほどのね」

「魔力が……?」

「つまり、ここにある全ての本の中には魔物が潜んでいるということよ」


 天才学者ロックスの迷宮に秘められた本棚を漁るという魅力に抗える者はいないだろう。

 それらの本が秘める知識や価値を思えば、その誘惑は計り知れない。

 しかし、ロックスはその冒険者の欲望すらも見透かし、何百年も前からそれに罠を仕掛けていたのだ。

 やはりアルフの言う通り、天才なのだろう。

 

「だから、本棚の本に触らない限り、一階層は攻略も同然よ」

「す、すみませんでした……」


 ユリシアが申し訳なさそうに頭を下げると、ベルタは「大丈夫よ」と優しく笑いかけたかと思うと、軽やかな動作で彼女の胸に手を伸ばし、いたずらっぽく揉み散らかした。

 そして、何事もなかったかのように、先へと進んでいく。



 戦いの場面だけでなく、迷宮の細部にまで目を光らせることが、効率的な攻略への道筋を拓くのだろう。

 ベルタのそんな冷静な判断と、時折見せる無邪気な一面が、この冒険を一層鮮やかに彩っていた。


 再び身を屈めて小さな穴をくぐり抜けると、そこは迷宮の二階層目に繋がった。

 ベルタが俺に警告を出していた、要注意な場所だ。

 先ほどの静かな書庫とは打って変わって、荒々しい岩肌がむき出しの洞窟が広がり、その空気はどこか生々しい気配を孕んでいる。

 ここが魔物の巣窟なのだろう。


 緊張感が漂う中、どんな恐ろしい魔物が襲いかかってくるのかと身構えたその瞬間、目の前に現れたのは、長い耳をピンと立てた小さな生き物だった。

 まるで無邪気なウサギのように見えるその姿が、状況の異様さを際立たせ、逆にこちらの警戒心をさらに煽る。


「これは……一体……」


 俺の心中で、未知の恐怖が静かに膨らんでいくのを感じた。


 一つ気になったのは、この異様な空間にこんな可愛らしい小動物がいることだ。

 きっと、これは罠だ。


「分析よ、分析」

「はい、わかりました」


 ベルタからの合図で、俺はそのウサギらしき魔物をよく観察した。

 かわいい、と思いながらも、ベルタの強烈な視線を感じて心の中で警戒する。

 そのままウサギが俺に近づくと、口を大きく開けて、鋭い牙を見せてきた。


 耳は異常に長く、まるで鋭いアンテナのように直立している。

 目は深い赤色で、瞳孔が蛇のように縦長に裂けている。

 これが、ただのウサギでないことを物語っている。


 そして、驚異的な口だ。

 普通のウサギが食べ物を咀嚼するのとは違い、その口は驚くほど大きく、上下に開いて牙をむき出しにしている。

 牙は長く、鋭い。

 まるで鋼鉄のように輝いており、開いた口からはじける唾液が、鋭さを一層引き立てている。


 その姿勢は威嚇的で、前脚を地面に突き立てるようにして、体を大きく見せる。

 毛の隙間から見える筋肉は、緊張感を漂わせ、準備万端であることを示している。

 恐怖や警戒心を感じさせるその姿は、可愛らしい見た目とは裏腹に、絶大な威圧感を放っている。



 冷静でいようと自分に言い聞かせながら、その巨大な口に圧倒されそうになる。

 感情のままに動くと死ぬとベルタが言っていた意味が、今まさに理解できそうだった。

 しかし、それでも俺は冷静さを保ち、冷静なままでいるべきだと思った。


 そして、俺は戦闘準備を整えた。

 魔物の大きな口が迫る中、すぐに動かないことが肝心だと自分に言い聞かせた。

 ベルタの言う「感情のままに動いたら死ぬ」という警告が、今ここで生きる意味を持っている。


 ウサギの魔物は、突然、素早く前進した。

 牙をむき出して口を大きく開け、咆哮のような音が洞窟内に響き渡った。


 ホォォォォ!!

 

 その震動が体に伝わる。

 牙が光を反射し、じりじりと迫る様子に、周囲の空気が一層重たく感じられる。


 俺は瞬時に反応し、剣を抜いた。

 魔物の動きを読み取ろうとし、呼吸を整える。

 集中し、冷静に敵の動きを見極める。

 その姿勢を崩さず、魔物の攻撃をかわす準備を整える。


 ウサギの魔物が跳びかかってきたとき、俺は一歩後退し、素早く斬撃を繰り出した。

 刀の刃が空気を切り裂き、魔物の前脚を狙う。

 剣が触れた瞬間、魔物の体が大きく震えた。

 牙が空を切り、俺のすぐ近くをかすめる。

 魔物の猛攻に耐えつつ、次の攻撃の隙を狙う。


 ユリシアも即座に動き出し、魔物に対抗するための準備を整えた。

 ベルタは特に動くことはなかった。

 一方、ユリシアも呪文の詠唱を始め、魔法の準備に取り掛かっていた。


 その中で、俺は魔物の動きを捉えながら攻撃を続ける。

 目の前の戦闘は、ただのウサギの魔物との戦いではない。

 まるでこの迷宮全体が試練を仕掛けてきているかのように感じられた。

 恐怖と興奮が交錯し、俺はその感覚を乗り越えていく必要がある。


 戦闘が進むにつれて、魔物の動きが少しずつ鈍くなり、疲労の色が見え始めた。

 これを機に、一気に決着をつけるべく、俺は集中力をさらに高め、最後の一撃を狙う。


 そして、俺は勝利を収めた。

 冷静さを保ち、《外見変化》を使うことなく、ただひたすら冷静に立ち向かい、ウサギの魔物を打ち倒したのだ。


「大きな勝利ね」


 ベルタの声は優しく、だが確かな称賛の意を含んでいた。

 その微笑みは、戦いの疲れを癒やすかのように温かい。


「本当に、大きな勝利だったわ」

「はい!」

 

 ユリシアも俺に満足そうに頷き、その顔には嬉しさが溢れていた。


 だが、喜びに浸るのはまだ早い。

 戦いはこれで終わりではない。

 まだ冒険は続く。

 体力も十分に残っており、ユリシアとベルタも同様に余裕を見せている。


 三階層目へと進む階段が、目の前に現れた。

 その階段は、これまでの粗末な通路とは異なり、精巧に彫刻された手すりが施されている。

 まるでロックス自身が、我々をこの迷宮の本格的な挑戦へと招き入れているかのように感じられる。


 階段を一歩踏みしめるたびに、ロックスの知識と知恵が凝縮された迷宮の奥深さが、じわじわと迫ってくる。

 次の階層には何が待ち受けているのか。

 どんな試練が我々を待っているのかを考えながら、慎重に足を進める。

 探索の先に何があるのか、その全貌を探るため、俺たちは一歩一歩、迷宮の深淵へと進んでいった。

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