第十七話 『ユリシアたんの浮気』


次の日――。


「またね、煌くん。」


 その言葉が耳に届いた瞬間、俺の思考が一瞬止まった。

 薄暗い部屋の片隅、硬いベッドに横たわっている俺は、ぼんやりと天井を見上げていた。

 この異世界で、まさか本名を呼ばれるとは。

 いや、それ以前に、「煌くん」なんて呼んでいた人間が、元の世界でどれだけいただろうか。

 学生時代に誰かがそう呼んでいた気はする。

 だが、誰だったかは思い出せない。


 女の顔も名前も、覚えない。

 あの若い少女と俺が親しい関係だった記憶もない。  

 いや、そもそも俺は年齢確認を怠らない男だ。

 それにしても、ルクセリオの姿で「煌くん」と呼ばれるのは、さすがに予想外だった。

 まあ、ただの聞き間違いだろう。


 窓の外には星が瞬き、静かな夜が広がっている。

 遠くからは、かすかに酒場の喧騒が聞こえてくる。

 俺は体を起こし、部屋を見回した。

 古びた木の床が軋み、錆びついたランプが弱々しく光を放っている。

 ここは、長旅の疲れを癒すための宿だ。

 隣の部屋にはユリシアがいる。


 昨日の戦いで負った傷は、ユリシアの治療のおかげでだいぶ良くなった。

 だが、完全に治りきったわけではない。

 だから、今日は一日中ベッドで横になっていた。

 体を動かすたびに、まだ鈍い痛みが走る。


 彼女のことを考えていると、ふと昨日、ユリシアと食事に行く約束をしていたことを思い出した。

 慌ててベッドから立ち上がり、俺は錆びた扉を開けた。

 待ち合わせ場所の酒場は、すでに夜の活気に包まれているはずだ。

 冷たい夜風が頬を撫でた。

 気持ちいい。

 街灯の下を急ぎ足で進む俺の影が、石畳の上に長く伸びていた。


 店の前で待っていたユリシアの姿が、俺の視界に飛び込んだ。

 彼女が怒っていないといいがと願いながら、足早に近づく。

 だが、ふと足が止まる。

 彼女は誰かと話していたのだ。

 若い男だ。

 そして、何より――イケメン。


 俺の胸に一瞬で嫌な予感が広がる。

 ユリシアはその男に向けて、満面の笑みを浮かべている。


クッ!!


 俺という男がいながら、彼女が他の男にそんな顔をするとは!


 これは――浮気、いや、確実に浮気じゃないのか!?


《違います》


 いや、違うなんてことはない!

 これは明らかに浮気だ!


異世界に来てから、俺はこれほど真剣に頭を働かせたことがあっただろうか。どうやって、あの浮気現場に堂々と乗り込み、ユリシアの弱みを握るか。考えるだけで、心臓が不規則に跳ね、焦燥感が胸を締め付ける。


《浮気じゃないです》


 いやいや、ガイドさんよ、君は甘いんだよ。

 これが浮気じゃなくてどれが浮気なんだ?

 男の俺なら分かる。

 ユリシアにその気がなくとも、あの男は間違いなくそういう下心を持っているはずだ。

 男なんて皆、そうだ!

 彼女の無邪気な笑顔が、奴の邪な欲望を呼び起こすに違いない。


 男のペースに引き込まれたら、ユリシアだって逃げられない。

 これは俺が落ちた落とし穴よりも、だいぶ厄介なトラップだ。

 

 いや、待て待て……最高の展開が頭に浮かんだ。

 俺はこの世界に来てから、どこか自信を失っていた。

 何かと戦いに出て、かっこいいところを見せようと必死だったが、それでも自信は取り戻せなかった。

 俺の二十七年の人生を振り返れば、もっと大事な教訓があったはずだ。


 そうだ。

 思い出せ。

 世の中で一番大切なのは――顔だ。


「イケメンはイケメンで追い返せ」ということわざがあったじゃないか。

 

 《ありません》


 ある。


 《ありません》


 ある。


 《ありません》


「《ガイド》、ミュートモーーードっ!」


 《そのような機能はございません》


 ったく、《ガイド》の扱いにも困ったもんだ。


 俺はアルフとの実験で《外見変化: 中沢煌》を習得した。

 それを使えば、俺はこの世界で無双できる。

 女たちとの夢のような日々がすぐそこにあると確信していた。

 なぜ、こんな名案を今の今まで思いつけなかったんだ。

 まあ、いい。

 これからでも無双はできる。


 俺は心の中で決意を固め、詠唱を囁く。


「目を閉じてごらん、ユリシア」


 その瞬間、俺の姿は鮮やかに中沢煌へと変わった。

 洗練された顔立ちと自信に満ちた表情が、まさにイケメンそのものだった。

 これに勝る顔立ちを今まで見たことがない。

 勝ちを確信した。

 今行くよっ、ユリシアたん!


 酒場の前で待っていたユリシアを確認した。

 そして、男も近くで確認。

 男は整った顔立ちをしており、確かにイケメンではあったが、その存在感は俺の足元にも及ばなかった。


 俺が近づくと、男が目にしたのは、まさにイケメンの中のイケメン、つまり俺だった。

 俺は堂々とその男に声をかけた。


「俺の女に、何か用か?」


 言葉には冷ややかで誇張された威圧感を込めた。

 俺の身長は男よりも高い。

 俺の存在が彼を圧倒した。

 ユリシアの表情には興奮と期待が浮かび、俺の姿をまるで初めて見るかのようにじっと見つめている。


 男は一瞬たじろぎ、慌てた様子で口を開いた。


「すみません、ユリシアとは昔からの知り合いで、そういう意味で声をかけたわけではないんです。」


 男の言い訳は、見ていても滑稽だった。

 良くもうちのユリシアたんをトラップのギリギリまで追いやってくれたな。

 俺は冷ややかに反応した。


「昔からの知り合い? それは面白い冗談だな。」


 男の目が俺に向き直る中、俺はユリシアに目を向けた。彼女の瞳は期待と興奮に輝き、まるで他の誰もが消え去ったかのように俺だけを見ていた。

 彼女は俺のもとに近づいてきた。

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