第九話 『全種族辞典』

そして……



 あれから、二年の月日が経った。

 俺は十六歳になった。

 年齢や誕生日は把握していないので、見た目を考慮して十六歳だ。


 オークとの一件があってから俺は剣術の訓練を始めた。

 それはイシアが担当してくれた。

 それにしても、彼女の見事な技術には何度見ても目を奪われる。

 まるで舞踏を思わせる優雅な構えから、繊細でありながらも鋭い剣さばき。

 そのすべての動きが、一瞬一瞬に込められた洗練された美しさを、たとえ素人の目であっても感じ取ることができた。

 加えて、なんと言っても、剣を振る時に揺れるタワワが非常に立派だ。

 祈りを捧げたいと思うほどに。

 それによって集中力が切れるのが、欠点だが。


 そして俺は、初期段階で習得したスキル『剣術』をレベル十八まで上げることができた。

 今では外見変化を伴わずに、オークを倒すことができる。

 今思えば、あんなにも弱いオークに死を覚悟したのが恥ずかしく思える。

 だが、成長したということだ。


 アルフとは《外見変化》スキルの実験を続行させている。

 その過程で驚くべき発見があった。

 さらなる研究と実験の繰り返しの末に、対象の外見だけでなく、その能力までも模倣できるという事実が明らかになった。

 

 例えば、オークの特徴と言えば、その屈強な力がまず思い浮かぶだろう。

 しかし、彼らにはそれ以上の能力がある。

 オークが放つ遠吠えは、瞬時に仲間を呼び寄せる力を秘めているのだ。

 そして俺がオークに外見変化すると、その恐るべき能力までもが使えるようになるのだと判明した。

 

 ただ勘違いしてほしくないのは、俺はまだ強くない。

 《外見変化》スキルを使う為には対象の情報を使って、その対象に成り切らないといけないわけだ。

 俺はオークに成り切る為に、ただの動く石になった。

 だが、それは簡単ではなかった。

 少し油断をすれば、すぐにルクセリオに戻ってしまうからだ。


 

「ルーク君、全種族辞典をご存知ですか?」

「なんですかそれ? 聞いたことないです」

「そうですか」


 いつものように、アルフの地下実験室で実験を行っていた時のことだった。

 アルフがふと、俺に問いかけてきた。

 「全種族辞典」という言葉を耳にしたのは、その時が初めてだった。


 アルフは淡々と「全種族辞典」のことを説明してくれた。

 それは、何百年も前にロックス=ノベールという名の天才学者が編纂したものだという。

 彼は自らの足で世界を巡り、すべての生物を観察し、その詳細を丹念に記録していった。

 その成果が、この「全種族辞典」だ。

 全ての生物についての情報がびっしりと書き込まれたこの書物は、学者たちの夢を形にした究極の記録なのだ。


「便利ですね! それはどこで購入できるのですか?」

「残念ながら、購入はできない」

「え、じゃあどうやって手に入れるんですか?」


 気づけば質問攻めをしていたが、アルフ自身、それを喜んでいるように見えた。


「ロックス迷宮で手に入る」

「迷宮ですか」

「ああ、そこに全種族辞典はあるとされている」


 アルフの言葉遣いが少し引っかかった。

 迷宮と言った時は自信を持っているように見えた。

 だが、迷宮と聞き返した時に不安を見せた。

 

 あるとされている。


「確認された事はない。なぜなら今まで攻略された事はないから」

「そうなんですね。それほどまでに難度な迷宮という事ですね」

「いや、そういう訳じゃないんだ。そもそも、今までロックス迷宮の存在自体が明らかにされていなかったんだ」

「え?」

「風の噂だが、最近発見されたらしい。それもニレニアという小さな街の近くでだ。だから冒険者にもまだ手をつけられていない」

 

 何を言いたいのかは大体分かった。

 俺は医者としての仕事があるから、お前が取ってこいだろ。


「ぜひ取ってきてくれないか! 全種族辞典が手に入ったら、《外見変化》スキルの研究もさらに進められるはずだ!」

 

 俺は人の言いなりになるのは嫌なんだ。


「こ、困ります! 俺は迷宮どころか冒険にも出たことがないんですよ?」

「そ、そうだよな……」

「世界中の学者がこぞって狙う書物なのであれば、すぐにロックス迷宮は攻略されて、全種族辞典は世間一般にばら撒かれるんじゃないですか?」


 なぜ俺に頼むのだ。

 このままだと俺が弱虫みたいじゃないか。


「他の学者に渡るのはまずいのだ……」

「まずい?」

「他の学者の手に渡れば、全種族辞典は独り占めにされてしまう」

「そんなにがめつい奴ばっかなんですか、学者って」

「そうだ、だが私は違う。私は『全種族辞典』を広く世間に普及させたいと思っている。それによって世界中にその知識が行き渡れば、世界がさらに進化する様子を見られると信じているんだ。」


 ……学者の鑑じゃないか、アルフってやつは。


「頼む! 俺はベテンドラ大病院としての仕事を休むわけにはいかないんだ! 頼れるのは、お前だけだ!」


 断りずらい。

 非常に断りずらい。

 一日考える時間をくれと言っておいたが、なんだか考えるのも面倒くさくなってきた。

 断る理由を探すのが面倒くさくなってきた。

 

 

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