裏話③


 やってしまった。

 人を、轢いた。それも故意で。


 それなのにガタガタと震えながらハンドルを握りしめているわたしの頭の中では。服のあちこちが破れて地面に横たわる彼が生きてるだろうかとか、自分が捕まって刑務所に入ることになるだろうとか……ではなく、彼のの状態でいっぱいだった。


 バッハさんを轢いた瞬間、あのクルッとフワッとしたツヤツヤの黒い髪の毛が遠くに飛んでいって……そして、今倒れている彼の頭は毛ひとつない、つるっぱげだ。


 だから、ハゲを隠していたから……彼はわたしとはつきあえないと言ったの? そんなの関係ないのに。

 ……本当に関係ない?


 段々とわたしの頭に血が巡ってきた。もし彼が最初からハゲだって知ってたら、多分わたしは彼に夢中にならなかった。そしたらこんな風に執着する事もなかったのに。

 彼が、悪い。こんな大事な事を教えなかったあのひとが悪いんだ。


 わたしは車をバックさせ、切り返してその場から逃げ出した。知らない道を闇雲に走りながら車の中で叫ぶ。


「なんで教えてくれなかったのよ!!」


 闇に包まれた前方にキラリと光る二つの丸いものが現れ、次の瞬間にそれはヘッドライトを浴びた一匹の猫の姿に変わった。


「!!」


 わたしは猫を避けようとハンドルを目一杯切った。車はガガガと凄い音を立ててガードレールにぶつかり止まる。さっき彼を轢いた時よりも激しい衝撃がわたしを揺さぶり、エアバッグが飛び出して身体を支えた。



 ◇



 それは単純な自損事故として扱われた。ガードレールにぶつかってベッコリと凹んだ車の箇所は、偶然にもバッハさんをはねた箇所と同じで、凹みは上書きされてわからなくなっていた。


 私は自暴自棄になって彼を轢いたのに、犯罪者として捕まることを心のどこかで覚悟していたはずなのに、それは皮肉にも完全犯罪になってしまった。


 翌日わたしはどうしても気になってバッハさんをはねた場所に確認しに行った。(犯人は現場に戻るって、あれ本当だわ)


「ない……」


 どんなに目を凝らしても血痕ひとつない。わたしが咄嗟に踏んだブレーキの痕は道路に残っているのに。更には、もう設置されているかもと思っていた立て看板もない。『○月×日何時何分に歩行者と自動車が接触する事故が発生しました。この事故を目撃した方は~』という、目撃者を募るお決まりのアレだ。

 つまり、バッハさんは死んでなかった? しかも警察に被害届も出さず、おそらく連絡すらしなかったって事だ。


 わたしはホッと小さく息を吐いた。



 ◇



 その日の夜からだと思う。あの悪夢を見始めたのは。

 身体がなんだかゾワゾワする。視界のはしに黒いものがぼんやりと見えた。わたしがその正体を確認しようと首をそちらに向けると、黒いものはさあっと消えてしまう。でもまた暫くするとまた黒いものが視界のはしに忍び寄る。


 日を重ねるごとに、黒いものはハッキリと、大きく見えるようになった。それは髪の毛……いえ、カツラだ。彼の頭からすぽーん、と飛んでいったあのフワフワの髪の毛が私を苦しめる。時には視界を奪い、時には髪が長くのびてわたしを縛りつけた。


「やめて!!」


 わたしは汗びっしょりで飛び起きる。そこはいつもの私の部屋で、さっきまで見ていたものはただの悪夢だ。でも毎晩こんなものを見続けたらまいってしまう。



 ◇



「嘘……」


 もう一度、あの事故現場に行ってみた。相変わらず警察の立て看板は無かった。それなのに横断歩道の脇には花と、お茶のペットボトルと、何故か猫缶が供えてあった。

 もしかして、やっぱりバッハさんは死んでしまったのだろうか?


 それとも猫缶があるってことは、たまたまここで猫が轢かれただけなのかも。……でも。わたしの心がざわついて、それでは納得しきれない。

 バッハさんと一緒にいる時に、彼は街中の猫を見かけるとにっこりと笑顔で、時には挨拶までしていたんだもの。彼が猫好きだと知っている人が供えたのかもしれない。


 わたしはこのままでは居られずに走り出した。ヒールの音を高く鳴らしながら全力で駅の方に向かう。周りの人の中には、何事だという顔でこちらを見る人もいたけど、今は他人の視線なんて関係ない。

 たしか駅前に花屋が有ったはず! その近くにはコンビニも。

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