裏話②
◇
そこまでは良かった。
道を間違えたのは多分その後。でも更にその後も、その後も。引き返す道は何度でもあったと思う。
わたしはレンタル彼氏のバッハさんを指名し続けた。最初はあの子たちに疑われていたから、もう少しカムフラージュを続けようとして。でも彼に会う度に本当にどんどん好きになってしまった。
「ホントにお茶だけで良いの? ご飯も奢るのに」
「何だか悪いですし、それに食欲もそれほど無いですから」
バッハさんはいつも飲み物しか頼まない。初めて彼をレンタルした日、あのパンケーキ屋に行った時もそうだった。
「食欲無いの? 大丈夫?」
「……ああ、病気とかじゃなくて、もともとこの身体は少食なんです」
この身体、って言い方に何かが引っかかる。けれど、次の瞬間彼の笑顔を見たら、微かな疑問は霧のように消え失せてしまった。
「心配してくれてありがとう。普段はゆで玉子と海草類を食べてるから大丈夫ですよ」
きっと、このスタイルを維持するためにストイックな生活を送ってるんだろうなと思った。そしてそんな彼を支えたいとも。
彼のレンタル料は一時間1500円で相場よりお手頃だったのもあって、わたしでも彼を長時間レンタルすることが出来た。やがてバイト代のほとんどを注ぎ込み、食費を切りつめすぎて毎食モヤシだけ、なんて生活になったころ。
「リラさん、もうボクを指名するのはやめて下さい」
すごく辛そうな顔で彼に言われたの。
「なんで……? どうして!?」
「言ったでしょう。自分を一番大事にしないと、って。今のあなたはそうじゃありませんよ」
「じゃあ、わたしの本当の彼氏になってよ!!」
「それはできません」
「どうしてよ!?!?」
わたしは大声で叫び、彼の胸にすがろうとしたけれど、彼はそれを許してくれなかった。レンタル彼氏といっても、彼はキスどころか抱き合う事さえできない契約だと最初の説明にも書いてあったから。代わりに、彼はわたしの肩に手を置いて頭や背中を撫でる。
「ごめんなさい。ボクはあなたの気持ちに応えられないんです」
バッハさんは最後まで優しかった。でもそんなの逆効果だ。フるなら手酷くフってくれないと、こっちはずっと未練が残ってしまう。
◇
わたしはまた道を間違えた。どうしても彼に会いたくて、別のアカウントを作り、別人のフリをしてバッハさんのレンタル彼氏を申込みしてしまった。そんな事をしたって、会った瞬間にわたしだとバレてしまうのに。
「……ごめんなさい。依頼はキャンセルしますね」
悲しそうな顔をして去っていく彼を見たわたしの頭の中がグジュグジュにシェイクされ、理性が徐々にすりつぶされ混ざって見えなくなっていく。
なんで彼は怒らないんだろう。彼にとってわたしは怒りさえ湧かない程度の、アリみたいな存在なんだろうか。もう考えが止まらない。「悪い方へ悪い方へ行っている、道を間違えているよ」とわたしの中のもう一人が警告をしているのに、わたしは私自身を止められなかった。
そしてレンタルしてしまったの。軽自動車を。
◇
わたしはまた更にアカウントをつくり、別人のフリをして彼のレンタルの申込みをする。そしてひとけの無いところに待ち合わせ場所を指定しておきながらすっぽかした。
レンタル料は先払いだから彼は律儀に一時間待ったあと、帰っていく。
わたしは車をそっと発進させた。ハンドルを握る手が震える。わたしは何がしたいんだろう。また自分自身が問う。「こんな事したってなんの意味もないじゃない。犯罪者になるだけだよ」って。あの時まだわたしは引き返せたはずだ。
けれど引き返せなかった。薄暗い道まで出た時にわたしは彼に向かってハンドルを切り、アクセルを踏んでいた。
彼にぶつかる直前、ヘッドライトに照らされたバッハさんの整った顔が驚きに変わったのが見えて……思わずブレーキをかけたけれどもう間に合わない。
ドンっという、思ったよりもずっと大きな音が車内と私の鼓膜に響く。彼は私の乗った軽自動車に跳ねられて人形のように宙を舞った。そして彼の
地面に転がった彼は怪我はしていそうだったけど、毛がなかった。
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