第22話 義理の愛

「早く元に戻ってよ……」

 シーツの中からもぞもぞと顔を出したリンネアは、深紅の焔獣の鼻先に口づけた。


「はぁ、お姫様のキスで元の姿に戻れるのは、おとぎ話の中だけか」

 何も変化のないぬいぐるみを枕もとに戻し、リンネアは立ち上がる。

 まだ少し残る身体の重さを感じながらも、カーテンの隙間から差し込む柔らかな朝日に導かれるように窓辺に近づいた。


 たしか花は無事だったと思うが、熱に浮かされていた間の記憶は断片的で、現実感が薄れていた。あとで見に行ってみよう。


 リンネアはエリダが用意してくれたミルク粥を食べ終わると、薬を飲んだ。まだ体が疲れているのか、その後、昼過ぎまでうつらうつらと浅い眠りに落ちる。



 人の気配を感じて目を開けると、いつのまにかベッドの傍らの椅子にはラーシュの姿があった。


「へっ……陛下?」

 まさか本当に様子を見に来るとは思っていなかったので、目を瞬かせる。


「起こしてしまって悪い。具合はどうだ?」

 ラーシュは表情一つ変えずに厳格な声で尋ねてきた。

 怒っているのか、嫌っているのか、それともどうでもいいと思っているのか、感情の読めない人だ。

 

 けれどエリダから聞かされた話が頭をよぎる。熱が上がりすぎて、彼が薬を口移しで飲ませてくれたという事実に、リンネアはどうしても動揺を隠しきれなかった。


「は、は……はいっ、だいぶよくなりました」

 熱くなった頬を見せないよう、さりげなくシーツを引っ張り上げながら答える。


「これを持ってきた」

 そっけない物言いだったが、手にしていたものを差し出す動作は以外にも慎重で優しい。


「え?」

 それはハーブのブーケだった。シルバータイムやラベンダーの香りが、ふわりと穏やかな空気を運んできたのですぐにわかった。


「これ、私に……?」

 ゆっくりと起き上がってそれを受け取り、ブーケに目を落とす。


「そうだ。少しは気がまぎれるかと思ってな」


 繊細な葉や小さな花が心を和らげてくれるようだった。ファルクス村にいた頃は、たくさんのハーブを扱っていたので、懐かしい気持ちになる。


 村のみんなは元気だろうか。世話になった礼に薬はたくさん置いてきたけれど、いつかそれもなくなり、リンネアは誰の記憶からも忘れられていくだろう。寂しい気もするけれど、それが本望だ。


「……ありがとうございます。でも、どうして私にここまでしてくださるんですか?」


「お前は俺の婚約者だろう? 気遣うのは当然のことだ」

 ラーシュは硬い表情のまま答えた。


「でも、聖剣を元の姿に戻すまでの期間限定ですし、もしかしたら戻らない可能性も……」

 リンネアはハーブのブーケに目を落とす。


 ――その時は、命の保証はない。


「そうかもしれない。だが、竜の復活の兆候に関する情報も上がってきていない。ぬいぐるみが剣に戻るまで時間がかかるとしたら? それまでは婚約は有効だ」


 それはいったいいつになるのだろう。


「私……皇妃には……」


「自由がないのは耐えられない、だったな。お前が望むならできるだけの希望は叶えよう。だが本当は……ずっと俺のそばにいてほしい、リンネア」

 ラーシュの大きな手が彼女の手に重ねられた。その手は大きくて温かく、精いっぱい不安を和らげようと努めているかのようだった。


 彼の言葉にリンネアは息を呑む。


 ――うん? どういうこと?


 ラーシュの揺るぎない眼差しからは、こわいほど強い意志を感じた。まるで野生の獣が獲物を追い詰めるみたいに真剣な表情だ。


 リンネアは動揺して目を逸らしてしまった。


 ――落ち着いてよく考えるのよ、私。

 ラーシュはきっと何事にも全力で臨む真面目な人間なのだろう。期間限定であろうとも、皇帝という立場から婚約者を蔑ろにはできない、そう考えたのかもしれない。


 ――義理堅い人なのね。

 聖剣をぬいぐるみに変えてしまったことを許せないはずなのに、気持ちの切り替えがしっかりできる人物なのだ。


 だから、これは仕事の一環。心から求められているわけではない。そう思ったら、胸がちくんと痛んだ。


 ――うん? どうした、私?

 ファルクス村から出てきて一か月も経っていないのに、もう人のぬくもりが恋しいのだろうか。一人になって自由に生きるとルンルンで皇都まで来たのに。


 彼の冷徹さと優しさが入り混じった態度に、どう反応すればいいのかわからない。


「返事は待つ。だが俺はあまり気が長い方ではない。では、そろそろ公務に戻らねば。また来る」

 そう言ってラーシュは寝室を出ていった。


「返事って? 私も、婚約者らしくしろってこと?」

 勝手な行動を容認すれば、他の人間から不満が出かねないということなのかもしれない。


 ――そばにいてほしいと言われたけど、それって彼の監視下に置くという意味なのじゃないかしら?

 そんなことは嫌だけれど、まだ自由な人生を謳歌していない。


 ここはおとなしくラーシュの言うことを聞くふりをした方が無難だろう。



 夜になって、再びラーシュが寝室を訪問した。


「あの、昼間の話ですけど、私、陛下のおそばにいます。聖剣を――」


「本当か! よく決断してくれた!」


「あの……だから……」


「俺は明日から数日間、属州国の一つに出かけてくる。婚約したばかりですぐにお前を一人にするのは忍びないが、前々から決まっていた話だったのでな」


 別に一人でも構わないし、逆に気楽でいいのだけれど、口を挟む隙がなかった。


「もし、その間に聖剣が元の姿に戻ったら……いえ、なんでもありません」

 ここを出ていってもいいですかと聞こうとしたが、凍てつくオーラを感じたので口をつぐむ。


 ――やっぱり、この人こわいぃ~!

 リンネアは心の中で滂沱の涙を流した。


「では、今夜はゆっくり休め」

 立ちあがったラーシュがふいに身をかがめ、リンネアの耳の上あたりの髪に口づけた。


「ふあぁっ!?」

 びっくりして目を丸くし、一気に体が熱くなる。


「おやすみ、リンネア」

 寝室を出ていく瞬間、彼が笑ったような気がしたけれど、すぐに扉の陰になったのでよくわからなかった。


 『婚約者』に対する態度の徹底ぶりよ!


「私には……できないわ」

 ベッドのそばのテーブルにある手鏡を手に取り、自分の顔を見てみたら、情けないくらいに真っ赤になっている。


 数日間離れるということは婚約者としての義理を果たさずに気楽でいられるのではないかとリンネアは思ったが、その予想は簡単に外れてしまった。


 彼が不在の間でも、リンネアのもとには様々な贈り物が届けられたからだ。


 柔らかなウールで編まれた美しいショール、珍しい絵本や詩集、色とりどりのドレス、アクセサリー、皇都で評判の菓子職人の特製の甘い菓子、穏やかな音楽が流れる木製のオルゴールなど、彼女の部屋にはラーシュの贈り物でいっぱいになっていった。


 ――義理の愛なんでしょう? ここまでする必要なくない?

 初めて口にしたチョコレートという菓子はとびきり甘くて、少しほろ苦かった。

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