幕間③

 その日々は幸せだった。

 その生活はやすらぎだった。

 何もかもを失ったはずだった。それが今では全てを許せるほどに寛大に、そして世界が幸福に満ちているようにまで感じる。

 ジークフリートとブリュンヒルトとの毎日は、想像していたよりも楽しかった。こんな日が、毎日のように続くと、そう思っていた。

 ジークフリートは日課である剣術の稽古をしていた。自分の他には誰もいない。ブリュンヒルトも、彼女の臣下も王も、誰もいない。

 それは静かな夜だった。加えて少し肌寒く、早めに稽古を切り上げようと考えていた。


「……誰かいるのですか」


 そこに微かに感じる人の気配。

 ジークフリートは稽古を中断し、周囲を探る。ここは月明かりしかない森の中。誰かいたとしてもその姿を目視出来ないが、丁度月に照らされ、一人の老翁がその瞳に映った。


「さすが、噂に違わぬ剣の腕じゃな」


 その者はどこか違っていた。何が違うのかは、具体的には言い表せられない。この世界の人間ではないと思えるが、それは神や天使のような神々しさなど伴っておらず、また悪魔などのような狂気さも孕んでいない。

 全く別の世界から来たと、そうとしか言えないほど、その老人の存在は不思議だった。

 ただ異様な雰囲気を纏っている者からでも、褒められれば気を良くする。ジークフリートも笑顔で返した。


「ありがとうございます。あなたも、只ならぬ雰囲気をお持ちで」

「まあ、それはそうじゃろ。っと、そんな儂のことなんかいい。ジークフリート、今日はお前に忠告をしに来た」


 名乗った覚えも無いし、こんな異様な老人、忘れたくても忘れようもないはずだが、向こうは自分の名を当然のように呼んだ。少し不気味だが、それよりも気になることをこの老人は言った。


「忠告?」

「そう。儂はお前の人生が手に取るように分かる。明日起こることから、お前の死因まで。全て知っている」

「じゃあ、それの証拠か何か、分かるようなことを予言してみてくださいよ」

「そうじゃな……」


 老人は顎に手を乗せ、考える素振りを見せる。丁度退屈していたし、少しその戯言に付き合ってやろう。そんな考えで、ジークフリートは次の言葉を待っていた。


「お前はブリュンヒルトでは無く、別国の王女を好きになるだろう。その日時は明日だ」

「――!!」


 思わず口よりも先に、その老人の胸倉を掴んでしまっていた。自分が他の誰かを好きになるなど有り得ない。

 その行動は、言葉よりも正確にジークフリートの心情を表していた。


「取り消してください」

「悪いが儂にはどうにもならん。信じられぬのなら明日まで待て。それで全て分かるじゃろう」


 見せるのは苦しそうな表情では無く、余裕を含んだ笑み。これ以上何か言っても、同じであることを悟り、ジークフリートは肩を怒らせ厄介になっている城へと帰る。


「また明日の夜、ここで待つ」


 後方から聞こえる声に、応じることなく一心不乱に城へと向かった。

 その老人の予言を、思い出さないために。

 そして、その翌日にそれは起こった。

 その日は別国の王と王女が城に招かれていたのだが、その王が自分をその王女の婿に欲しいという。


 当然断り、あっさりと諦めた王は酒を勧めてきた。断る理由も無く、一気にそれを呷った。

 きっかけがどこにあったのかも分からない。とにかくそれ以降、その王女のことが気になり始めた。次第には、恋という感情まで抱く始末。未だ理性があるが、その内に取り返しもつかないことが起こってしまいそうな気がする。

 一刻も早くその王女の前から逃げ出さなければ。ジークフリートは城から出て、その足を自然と昨夜の森へと向けていた。


「その様子じゃと、予言の通りのことが起きたみたいじゃな」


 昨夜の言葉通り、そこには既に老人がいた。何か応える気力も無く、その場に座り込んでしまう。


「儂の言うことを、信じる気にはなったか?」

「……どうして、分かったんですか」


 こんなこと、予想出来るはずも無い。これが分かる人間は神かそれに近い人間ぐらいだろう。ジークフリートはぼんやりと、老人を眺めながらそう尋ねていた。


「別に大したことはしておらん。ただ書いておっただけじゃ。お前は毒を盛られその王女を好きになる。お前のことが紡がれている本にそう書いてあった」


 言葉の意味が分からない。自分のことを綴った本など、ましてや未来まで描かれた本などあるはずもない。益々この老人の正体がはっきりしない。


「信じられないか?」

「……信じたく、ありませんね」


 もしこれが本当に予言出来たものだとしたら。

 そんなこと、考えたくもない。知りたいことではあるはずなのに、知りたいとは思えなかった。


「彼の主神オーディンはこう言った。『黄金と、指輪を持つ者に災いが来る』と。なればそれを信じたくなるまで、儂は予言を続けてやろう」


 疲れによる朦朧とする意識の中、その老人の笑顔が深くなっていることだけが、強く脳に焼き付いた。

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