第二章④
「さて、これ以上時間を掛けても増援を呼ばれる可能性を高めるだけ。手早く聖霊を召喚させて、あなたをいただきましょうか」
手が向けられた瞬間、レイエルは咄嗟に、反射的に腰を落とした。あれだけ警戒していたからこそ出来た行動。必殺とも見える
「おや戦わないのですか。別にわたくしとしてはそれでも構いませんが。……いえ、やはり退屈ですね。もっともがいてもらわなければ」
今度は偶然だった。その言葉が終わらない内に真横に飛び、同時に棚が抉り抜かれた。呼吸を整える間もなく、レイエルは
戦闘経験らしい経験は無い。当たり前だ。現在まで普通の一般市民として生活をしてきた。そこには細かい争いこそあるが、本当に些細なこと。戦闘と呼べるものでは無い。至って日常的な暮らしの中で生きてきた。
死線を潜り抜けるという意味ならばあるにはあったが、それも逃げてばかりで、ろくに拳で殴れない。
筋力を鍛えているわけでもない。素晴らしい能力があるわけでもない。平凡な少女がまともに戦って、あんな化け物に勝てるはずが無い。
出来ることは増援を呼ぶことだけ。悔しいがレイエルにはそれしか選択肢が無かった。
「本当に逃げてばかりですね。つまらなくないんですか? 情けないとは思わないのですか。これまでの司書官は、といっても一番初めを除けば皆わたくしに戦いを挑んできましたよ。いずれも返り討ちにしましたが。恐らくは敵討ちといったところなのでしょうが、あなたにはそれが無いのでしょうか」
背後から聞こえる声に、その足を思わず止めてしまう。つまらない、情けない。しかし、逃げ助けを呼ぶぐらいしか出来ない。
しかし――
「わたくしならば。戦うことが出来なくても、せめて一矢報いてやろうとは思いますけどね」
屈辱的だが化け物と同じ意見だった。
今日は避けてばかりだった。カラドのことも、そして
それは分かっているのだが、どうやら自分は。どうしようもなく負けず嫌いらしい。
「フェロー出て来てください」
その言葉に従うように、莫大な光量を伴って一人の少年が具象する。レイエルの胸ぐらいの身長で、どことなく怠そうにしている。
「何さ」
「どうせ知ってるんでしょう? なら一々説明なんてしてる暇ありませんよね」
「僕に何をしろと」
「あなたにしか出来ないことなんで。よろしくお願いしますよ。まあ作戦っていうほどのものでも無いと思いますけど」
今の閃光で聖霊を顕現させたこと、それに大体の居場所がバレてしまっているはずだ。急がなければならない。
瞬間、真横を禍々しい悪意とも呼ぶべき空気が通り過ぎた。気付けば棚や本はバラバラ。木屑や薄汚れた紙が埃を立てて床に落ちていく。
「……」
「じゃ、じゃあそう言うことでお願いしますっ」
「おいっ。ちょっ、一人にするなよ!!」
粗雑な説明を終えたレイエルは逃げるようにその場を離れた。フェローと呼ばれた少年は嘆息し、仕方なく彼女に言われた通りにする。
「おや? もう追い駆けっこはお終いですか?」
崩れた棚の影から、薄気味悪い笑顔の男が顔を出す。
「……これから一矢報いようと」
「なるほど。それは素晴らしい。先程稲光がしましたが、聖霊を召喚したとみて間違いはないのですね」
「召喚っていうか、顕現ですかね」
「良いですね。これで役者は揃ったというわけです。さあさあわたくしに見せて下さい。あなたの策を」
興奮気味でさらに一歩近付く
「今ですフェロー!! 後ろからやっちゃってください!!」
「なっ!?」
突然の咆哮に
「どうですか? まさかこんな簡単な手に引っ掛かるなんて思いもしませんでしたけど」
馬鹿にしたように笑う。あまりにもあっさりと決まり過ぎて拍子抜けしてしまう。与えたダメージは小さいだろうが、それでも出し抜いて一泡吹かせることに成功し、つい機嫌を良くしてしまう。
大したことない。思っていたよりも弱い。
直後に、それが油断だと。間違いだと悟らされた。
振り向いたその表情。先程までの笑顔はその溝をより一層濃く描き、射抜かれるような視線は獣が餌を狙う時のそれそのもの。
不気味。ただその一言で片づけられない。悪魔や幽霊、犯罪者。そういった類のものだったならば、どれだけ気が楽だろう。その程度では収まらない。正真正銘、こいつは精神までもが化け物だ。
予想以上の存在に圧倒され、無意識に一歩退いた。化け物は楽しそうに、嬉しそうに、幸せそうに喚く。
「あれれ。もう終わりですか。他に何も無いんですか。そりゃあそうですよね。あなたの目的はわたくしに一矢報いること。今まで誰一人として成し得なかったことをしたのですから、あなたは十分過ぎるほどに良くやったと褒め称えられるべきでしょう。ですが――」
ある意味で、油断している。知の探求者は目前の餌ただ一つしか見えていない。第三者からの攻撃を全く予見出来ていない。このチャンスを突くしか、この化け物から逃れる手段は無い。
「今ですフェロー!! 後ろからやっちゃってください!!」
先程と同じ科白。不意打ちを与えるためのものだったが、さすがに学習するらしい。
「二度目が通用するとでも? わたくしでなくても引っ掛かる者はいないでしょう」
希望はそれで断たれた。騙されてくれたならば、逃げる時間も攻撃する時間も生まれる。一種の賭けだったが、
上手く運び過ぎて、頬が緩んでしまう。
「いいや。あんたは綺麗に引っ掛かってくれたよ」
「何を――」
固く、険しかった表情を和らげさせ、目の前の人間が得体の知れないものに映る。誰だって不自然に思うだろう。気でも狂ったかと考えるだろう。諦めたのだと決めつけるだろう。
しかし、それも叶わない。明滅と鈍痛。何かが砕ける音。それらが一斉に知の探究者を襲い、衝撃と不可解さが思考を混濁させる。
「おお、おおお……」
視界を歪ませた明滅は、すぐに火によるものだと判明する。
何かが燃えている。司書官の少女が持っていたような小さなものではない。もっと大きく、もっと身近にその光はあった。
燃料の所為か炎は瞬く間に顔面にまで及び、皮膚を、細胞を焼き潰していく。
揺らめく炎の中、視線を背後へと這わせる。そこには一人の少女。先刻まで追い詰めていた、司書官。後方にいる者と同じ人間が、そこに立っていた。
「あなた……、どうやって」
「誰が説明なんてしてやると思ってんですか」
息を切らせた少女レイエルは取り合わず、一目散に座り込んでいる少女の元へと向かう。
見てくれは全く同じ。身長も髪も面持ちも、瓜二つだった。
双子であってもここまで似ないだろう。しかし二人の内の一人、駆け寄られた方の少女の顔が突如として変貌し始める。
目や鼻、口元といったパーツだけではない。顔以外の髪や身長に至るまで、原型をとどめることなく、少女は見る間に少年に変わった。
「良かったですね。怪我が無くて」
「レイエルさぁ……。本気で言ってんの」
「まあ私じゃああんなはったり、上手く出来なかったですからね。一発食らわせて清々しました。ありがとうございます」
「……全く。ランプ代ぐらいは弁償しとけよ」
声色さえも、面影を残していない。完全なる別人。およそ人間には有り得ない能力を持つそれに、
「そうか……」
あれが彼女の聖霊。
背は低く、容姿は幼く見える。能力そのものとしては変身能力らしいが今はそこはどうだっていい。
とにかく食べたい。人間の肉は食してきたが、まだ幼く成熟し切っていない肉を喰らうのは初めてだ。想像しただけで、涎が口内に広がる。
食べたい。舐めたい。噛みたい。飲みたい。一体どんな味がするのか。どういった世界を見せてくれるのか。何よりも知を好む男の欲求は抑えられなくなっていた。
「この程度でくたばるとも考え辛いですし、とっととトゥーラさんでも呼んで来ましょう」
「うん。それがいい――」
頷いたフェローの言葉が詰まる。視線をレイエルからその背後、
その反応は正しくて、間違っていた。見なければ
「に、逃げようレイエル!!」
「逃がすとお思いですか?」
子供のような無邪気な声と、何かを飲み込んだような音。静かな書庫に訪れたその変化だけで、煌々と放たれていた光は消え、周囲には再び薄暗い闇が出来上がった。
「まさか、炎を飲んだんですか!?」
「行くよ!!」
フェローの声に押されるように、レイエルは出入り口へと駆け出す。ここに入るための通路は一つしか無い。
レイエル自身今どこにいるのか大体の範囲でならば分かるが、ここは普段見慣れない書庫。納められている本の種類こそ違うが、基本的な構造は走っても走っても変わり映えすることはない。
おまけに薄闇でこの状況。目的地は定まっているが、辿り着けるのか。俄かに不安が生じる。
「横に飛ぶよ!!」
「っ!?」
フェローの叫びに呼応して、近くの通路に飛び込む。
その直後、棚が砕ける音と共に、何かが掠めた。
「フェローは指輪の中にっ」
「そんなこと出来ない」
「ダメですっ。入っていて下さい!!」
鬼気とした迫力に負け、フェローは渋々指輪に宿る。
これで
決して目の前で気の良い友人が居なくなるのを見たくなかった、なんて論理的でない思考の末の判断などではない。
「早くっ。とにかくここから出ないと」
急いでしまった。気持ちが早まってしまっていた。だから次の摂食に気付くのがコンマ数秒遅れてしまった。
「――っ!!」
何とか身を捻り、無理矢理通路へと逃れる。幸い致命傷は避けることが出来た。直撃はしていない。ただ足を掠め去っただけ。
それでも。それだけで。痛みが、恐怖が全身を支配した。単に皮膚が破れただけなのに。少量の血が流れているだけなのに。レイエルにとっては酷く現実離れしたようなそれが何よりも怖かった。
「ようやく当たりましたかっ。それでもほんの僅かですが。血も結構ですけど、やはり本体を食したいですねえ」
近づいて来る。人を食糧としか見ていない怪物が。知を求める化け物が。
最早希望は断たれた。痛みが足を中心に全身に回って、さらに恐怖が身体を蝕み、倒れ伏したまま動くことが出来ない。
気付けば扉の前。夢中で走っている内にここまで辿り着いていた。
あと少しだったのに。もう一歩だったのに。
こんな所で死んでしまうのか。
恐怖と、悔しさで。望んでもいない涙が零れる。
こんなことになるならもっと素直になっていれば良かった。カラドに対しても今までのような態度を取らなければ良かった。つい先程まであった事柄が、真っ先に思い出される。
後悔と懺悔が入り混じる。死が分かるとこんなにも、考えたくなることが浮き彫りになるのか。もっと生きていたいと思えるようになるのか。
死が迫ってくるのが理解出来る。レイエルは神に祈るように、眼を閉じる。
諦めきれない。納得出来ない。まだ死にたくない。もっともっと世界を見てみたい――
「何やってんだよ。お前」
失意に彩られた世界の中に、聞き覚えのある声が響いた。
目を開き逸る気持ちに応えられず、ゆっくりと視線を声が飛んできた扉の方へと向ける。
そこには。今日一日で見慣れた姿。若干不機嫌な表情を露わにしている、カラドがいた。
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