第二章③

 レイエルは書庫に来ていた。予約されている図書を取るため、棚が立ち並ぶこの薄暗い場所に来るのはよくあることだった。

 しかし慣れない。ここは図書館の丁度地下に作られており、そのため照らす光源は多くないランプのみ。その光量も図書にダメージを与えるのを防ぐためか極力抑えられており、目を凝らさなければ図書のタイトルさえ見えない有り様だ。

 よって入る際は備え付けられているランプとは別に、オイルランプを持って入らなければ仕事にならない。


 おまけにそこは書架以上に埃っぽい。書架は徹底的に清掃を行き届かせてはいるが、それでも塵は目立ってしまう。それが普段利用もしない書庫ならばその量は膨大なものとなるだろう。

 書架のように清掃は出来ない。書庫の図書は上にあるものと比べ古く、傷だらけの物が多い。希少性のあるもの、刊行年が判別不可能なほど古いもの、本としては適切ではないもの、そういったものがこの書庫には眠っている。

 ここにある本を借りるためには一月以上前から予約し、それを借りるに値する人物であるのか査定される。それほどまでに厳重体勢を敷かなければならない本。

 当然、傷一つ付けられない。


 それらに配慮して書架とほぼ同じ面積のこの地下を掃除出来るはずもなく、結果として不愉快な空間が形成されてしまっている。

 とっととここから出て行きたい。レイエルは手早く予約されている図書を引き抜く。

 シンと静まり返った世界。こんな時に余計な思考が働いてしまう。いやこんな時だからかもしれない。


「私は、何やってるんですかね」


 新しく入ってきたばかりのカラドに嫉妬するなんて、どれだけ愚かなことだろう。年齢で先輩と言っても二つしか違わないし、出来る後輩ならば褒めて然るべきだ。

 それを褒めるでもなく、糧とするでもなく、ただ嫉妬という怠惰な感情を抱くだけ。

 自分から見ても、見苦しかった。


 下手な対抗意識など、無意味なのに。そんなこと分かりきっているのに。

 レイエルの胸中には負けたくないという感情が渦巻いていた。

 ここから出て、カラドとどう接していこうか、ぼんやりと考えることはそんなことばかり。だから気付かなかった。自分以外に人の影があることに。


「すみません」

「ひゃっ!?」


 思わず持っていた本を落としそうになる。戸惑いながらも、背後から放たれた声、その主へとレイエルは振り返った。

 痩せぎすの男だった。頬骨は出張り、白髪はぼさぼさ。身に着けている衣服もボロボロだ。柔和な笑みを浮かべ、快活そうな青年ではあるが、無精ひげに生気の感じられない瞳のおかげか、何十歳も老けて見える。


「失礼。驚かせてしまいましたか。ですが、何かに夢中だったようでしたので、少し大きめの声を出させていただきました」


 男は笑い、レイエルに歩み寄る。その見た目からは想像出来ない丁寧な口調。唐突に現れたその存在に、レイエルの理解は未だ追い付かない。

 この場所は通常一般人は立ち入ってはいけない場所。そこに例外はない。例外が出たとしても、司書官であるレイエルが知らないはずがない。


「あなた、一体どうやって……」

「警戒心というものは大事ですよね。一々入った後も鍵を掛けるなんて用心過ぎます。わたくしでなかったならまず入ることが困難だったでしょう」

「とにかく、退館時間も過ぎてますっ。早く出て下さい」

「おや、お客に対してその物言い。感心出来ませんね」


 怒るでも、何か探している様子でも無い。ただ男は笑うばかり。

 得体が知れない。レイエルは衝動的に後退りしていた。この男は、自分の知らない人間だ。いや人間の範疇に収まるのかさえ怪しい。男に対する感情はここへ入った怒りから恐れと警戒心に変わっていた。


「どうして後退するのか分かりませんね。こんなにも友好的なのに」

 男が手を伸ばす。その手が何を意味しているのか分からない。しかし、レイエルは反射的に、その手を触れる寸前で躱した。

「――っ!?」


 同時に響く破砕音。勢い余って地に伏してしまったレイエルが顔を上げてみれば、今まで自分が立っていた場所。具体的に言えば顔があった空間。その後方から先が綺麗な歯の形を描き消失していた。

 棚も本も。一つでは無く並ぶ棚全てを貫くように、歯型が出来上がっていた。


「おや避けられてしまいましたか。本当に、一体どこが駄目だというのでしょうか」


 尚も笑いながら、男は視線をレイエルに向ける。異様で、何を考えているか分からない視線。こいつは、この化け物は――


「ただやはり書庫というだけあって図書の味は一級ものですね。今まで食べてきた本の中で、今し方食べた物が一番美味でした」

「あなたは、知の探求者ブックイーターっ」


 上からの報告で知っている。ここから離れた図書館から始まり、日に日に大図書館近辺までその犯行を及ぼしている。その手口は謎。何人もの犠牲者が出ているのにも関わらず、未だ分かりきっていない。

 ただ本や棚に穿つような痕が残っていただけ。何も分からなかった。


 けれど今なら分かる。目の前の男が何をしたのか。仕掛けは分からないが、恐らく――喰ったのだ。本を、物体を、口というモチーフを以て。

 正体不明の男から、知の探求者ブックイーターという一応は得体の知れる存在となったことで、レイエルの恐怖心や懐疑心は消えた。

 しかし、相変わらずその存在は理解出来ない。警戒心は拭えない。レイエルは素早く体勢を立て直し、知の探求者ブックイーターに向き合った。


 改めて見れば普通の男だ。少し不格好ではあるが整えれば一般社会に溶け込むことが出来るだろう。しかし、それらはあくまでも見た目の話だ。

 雰囲気や空気。そういった男が纏う佇まいが異常だった。冷酷でなければ、憤然としているわけでもない。ただ、嬉々としているのだ。それは周囲を幸せにさせるものではなく、寧ろ違和感、嫌悪感を抱かせるものだった。

 何とかしなければ。司書官としてレイエルは最善策を思案する。


「人を食べる。非常に存在感が漠然としているわたくしにとって、その人そのものを血肉とし経験を得る。そうすることでわたくしは自らを保ってきたのです。もちろん味わいなども大切ですが、それは二の次。本当に必要なのは知識と、豊かな見聞なのです」

「あなたは本当に、人をっ――」


 悲痛な声は、知の探求者ブックイーターがすぐ横の棚に手をかざしたことで遮られる。棚は絶叫を轟かせ本と共にその身を消した。後に残るのは歯の型のみ。

 これまでの事件で歯型の痕跡が残されていたことから、これといった凶器は無く、その身で喰らっているのではないかというのが大図書館での見解で、恐らくそれは間違っていないのだろう。

 その光景を目の当たりにすれば、凶器は嫌でも分かった。

 手でも食える。手そのものが凶器となる。常人ではおよそ予想出来ない武器をこの化け物は有していた。

 無意識にレイエルの身体は強張り、警戒心をさらに強めた。

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