幕間②
ジークフリートは死闘の末、レギンの兄とやらに勝利した。
勝利したとは言っても辛勝。こちらも傷だらけだった。身に纏う衣装は返り血なのか、自分の血なのか分からないほどに、紅く染め上げられ、それは衣装だけでなく、全身にまで及んでいた。
激闘の果ては静寂そのものだった。草木は落ち着き、小鳥たちは囀っている。ジークフリートも、緊張で強張った身体を解く。やるべきことは、終わったのだ。
「帰るか」
レギンの兄の死骸を背に向ける。血の雨を浴びたが如く鉄臭い身体を、一刻も早く清めたい。顔面が血まみれなのか、口を拭えば血の味がする始末だ。
とにかく、早くレギンの元へ帰りたかった。
「……レギン……」
唐突に聞こえた声。自分の発したものでは確実に無い。その音に、ジークフリートは足を止め辺りを見回した。
「誰だっ」
人がいる気配はしない。しかし、囁き声のようなものは聞こえる。誰にともなく叫ぶが、それに対する返答も無い。
「レギンに……」
喋る者はいない。ただ確実に、その声が聞こえる方へと歩いていく。向かう先には、小鳥たちしかいない。
囁くようにしか聞こえていなかった音は、それらに近づくにつれ、鮮明に聞き取れるようになっていく。
「ジークフリートは、レギンに騙され殺されようとしているよ」
「――なっ!?」
聴き慣れた名前と、聴き慣れない単語が同時に聞こえた。
騙す? 殺す? レギンが、自分を?
余りにも有り得ない組み合わせ。考えられないその言葉の羅列に、感情的になってしまう。
「どういうことだ!!」
怒鳴っても、返事など返ってくるはずもない。小鳥たちは逃げ、辺りには自分一人。もう何もいない。囁いていた声も、それに併せて消える。
一体何だったのか。今の内容は、本当のことだったのか。
そんなことあるはずも無いのに、胸につかえる不安が、正常な判断を許さない。
ジークフリートの胸中には、小さな疑念が芽生えてしまっていた。
■
「帰ったか。ということは、倒してきたってことだよな」
血に塗れたジークフリートを、レギンは笑顔で出迎えてくれた。帰ってきたこと、長年一緒に暮らしてきた恩人に無事会えたことに安堵するが、しかし、山で生まれた小さな疑念は拭えない。
あの声を信用する根拠が何一つ無い。レギンは今も笑顔一つ絶やさないし、何より今まで育ててきてくれた。殺す理由なんて、何処にも無い。
「どうした? 入らないのか?」
「え、ああ悪い」
何時までも玄関から動こうとしないジークフリートに、疑問を持つのは普通のこと。やはりレギンにおかしな様子は見られない。
ただ何時までも、その言いようのない不安は消えてはくれなかった。到底信じられないことなのに、何故だかその不安が本当のことのように思えてしまう。それは、食事の時も、手伝いをしている時も、ずっと胸の片隅に在り続けていた。
恩人に対して、こんな思いは抱きたくない。しかし、もし本当だったら……。
「レギンは、俺のことを殺そうとしているのか?」
苦しかったのだ。何も信用出来ないこの現状が。自分にさえも頼ることが出来ないこの時が。呟くように、しかしレギンには聞こえるように、無意識に尋ねてしまっていた。
「何故だ?」
椅子に座るレギンは驚いたようにそう尋ね返す。
当然だ。同居人に突然そんな物騒なことを言われれば、誰だって驚く。自分でも、馬鹿なことを尋ねたと後悔する。
「いや何となく、そう思っただけなんだ。忘れてくれ」
「そうか……」
レギンはジークフリートから視線を外し、俯いた。
小鳥たちの囀りから聞いたなんて言えない。恥に恥を重ねるようなものだ。これ以上、レギンとの関係が悪くなるようなことはしたくなかった。
俯くレギンの表情は分からない。怒っているのか、泣いているのか、嘆いているのか、笑っているのか。不気味な沈黙が、しばらく続いた。
耐え切れず、何か言葉を口にしようとしたその時、レギンによってその沈黙は破られた。
「お前は、よく働いてくれたよ。日常生活から、とうとう俺の願いも叶えてくれた」
おもむろに、椅子から立ち上がる。相変わらず、その表情は窺い辛く、ジークフリートはただレギンの言葉を待つことしか出来ない。
「お前は俺の弟子同然だ。だから、師匠である俺のことも理解出来たのかもな」
「レギン……?」
レギンの言葉の真意。それが分からないほど、愚かでは無い。ただ、それを信じたくなかった。知りたくなかった。分からないフリを、していたかった。
けれど現実は、今起きようとしていることは、ジークフリートのそんな望みを容赦なく打ち砕く。
「レギン……」
分かる。少し離れた距離からでも判断出来る。向かってくるレギンの放つそれ。疑いようのない、禍々しいほどの殺気。
何処から取り出したのか、手に握られているナイフに、ジークフリートもまた隠し持っていたナイフを本能的に構えてしまっていた。
「――っ」
その勝負は呆気なく、終わりを迎える。レギンは喉や口から血を流し倒れ、ジークフリートはただそれを見つめていた。
「どうして、どうしてだ」
呼吸は荒く、身体は震える。どうして向かってきたのか。どうして殺そうとしたのか。これまでの生活を、今まで通り続けてはいけなかったのか。
ジークフリートには、何も分からない。
「俺はな、小僧。ただ俺の目的を果たせりゃそれでよかったんだ。適当に戦えそうなやつを、選んで育てて、そして切り捨てる。初めから、それが目的だった」
弱々しく紡がれたレギンの言葉。今あるこの光景、その言葉は到底現実で起きていることだと思えない。脳が熱い。眩暈がする。
何が正しくて何が間違っているのか、そんな区別さえつけられない。
あるのはただ、自らの無知さを嘆く悔恨の意のみ。
レギンは悪ではない。初めからそのつもりで近づいてきたのだから、それを見抜けなかった自分が悪いのだ。
そこに恩人を失った寂しさはない。裏切りを受けたという悲しみもない。
けれど何故か。その瞳からは、透き通った滴が流れ落ちていた。
もう目の前のレギンは生者ではない。息も絶え、亡者と成り果てている。もう、ここには居られない。
しばらくの後、ジークフリートは適当な剣を手に取り、家を後にする。
罪悪感も、悲観も何も無い。自分は、再び何もかもを失った。家も知人も、ある物は奪ってきた剣と、指に嵌められている黄金の指輪。他には何も無い。
それが怖かった。自分の無力さと無知。何も無い自分が、何も出来ないことが恐ろしかった。
次第に、駆け足になっていた。そうしなければ、本当に全てを失ってしまう。何も持たない闇が背後から迫ってきている。その恐怖から、逃れるために、ジークフリートは長い間走り続けた。
気付けば、森を抜けていた。散策していた当時は森の入口周辺にしか入っていなかったので知らなかったのだが、随分と広大な森だったらしい。
辺りは夜。月明かりぐらいしかその闇を消すものはない。はずなのだが、森を抜けた先はまるで昼間のように明るく、その周辺を照らしていた。
そこにあったのは巨大な炎の塊。燃えているのは何かの建物だろうか。詳しい造形は分からない。
少年期の心の傷というわけでは無いが、その炎が少し恐ろしく感じた。全てを奪う紅蓮の悪魔。それが、再び自らの前に立ちはだかった。
「……」
恐怖を覚えると共に、僅かに、その口元が歪んだことに気付く。今何も持たない、全てを失った自分から、炎は一体何を奪ってくれるというのだろう。
まるで、虫がその明るさに惹かれ自ら炎に飛び込んでいくように、その身体は無意識に、その建物へと引き寄せられていった。
炎がその身を焦がしていく。血液が沸騰しているかのように、内から熱を感じさせる。
あと少しで、全てを奪ってくれる。それで、終わりのはずだった。
「あれは……?」
朦朧とする意識の中、ジークフリートは炎に囲まれている人の影を見た。逃げ遅れたのか、自分と同類か、分からない。ただ、僅かに意識があるらしく、倒れ伏してはいるものの、出口に向かおうと手を伸ばしていた。
「……助けないと」
何故、自分でもそんな思考に至ったのか、理解出来ない。正義心でも、贖罪の心から思ったことでもない。
ただ、目の前で何かが奪われる様子を、見たくなかっただけなのかもしれない。
倒れ伏す者の手が、力無く落ちる。ジークフリートはそれを掴むと、力強くその者と共に炎の中から抜け出した。
世界が紅蓮から緑や黒に彩られた夜の世界へと変わる。
荒れた呼吸は澄んだ酸素を取り込み、溜まった熱い空気を吐き出している。加えていた力が、安心した所為か解かれ、ジークフリートは地面に座り込む。
死が間近に迫ったおかげか、今こうして息をして、生きていることがとても素晴らしいことのように感じる。荒んだ心も、膨らんだ世界への猜疑心も、萎んでいることが実感出来る。
ジークフリートは熱を含んだ身体を、ぼんやりと星が瞬く空を見ながら冷ましていた。
「……あの」
轟々と炎が燃え盛る音に紛れ、乾いた声が聞こえた。振り返って見れば、少女が一人、身を起こしてこちらに顔を向けていた。
「助けて、下さって、ありがとうございます」
力無く紡がれる声は、辛うじて耳に届く程度。距離は無いのでジークフリートにも聞こえたが、意識すべき点はそこではなかった。
それまで助けることに必死で、精一杯だったので見る余裕も無かったが、ジークフリートはただ起き上がった少女の顔に視線を向けていた。
絶世の美少女だった。世界を知らない自分がそう思えてしまえるほどに、その少女の顔は整っており、全てが美しい。
この少女のためならば、命を賭けても構わない。それほどまでに、ジークフリートはこの少女に魅入ってしまった。
「失礼ですが、名を教えて下さいませんか?」
「え、俺――、いや、わたくしの名前は、ジークフリートと申します」
思わず口調も変えようと思ってしまう。孤児院とレギンに教えてもらった程度だが、不格好な丁寧語で、ジークフリートは名乗った。
「私はブリュンヒルトといいます。何かお礼でも、出来れば……。そうだ、お城にご招待しましょう。きっと父も喜んで下さるはずです」
こうして、ジークフリートとブリュンヒルトは出会った。
芽生え始めていた恋の心をその胸に抱いて。
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