第一章⑨

 一体何時生まれたのか。一体何処で生まれたのか。そんなこと、記憶の片隅にすら残されていなかった。ただ彼の気が付いた場所が、景色が、最初の記憶であり、初めの知識だった。


 生まれた場所も時間も分からないのだから、彼は自分の名前も親も、知ることが出来るはずがない。そもそも、名前だの親だのという存在があることを、教育者が教えてくれるまで知らなかった。このことを知ったのは物心がついて、一年以上経過した時だった。


 親はもちろんのこと、友もいなかった。親しめない教育者だけが、唯一彼の身近にいる存在だった。朝起きて、あれこれ教えられ、眠りにつき、翌日また同じようなことを繰り返す。自分にとってはそれが普通なことだと思っていたし、特にその生活に不自由は感じられなかった。


 しかし、ある日出会ってしまった。本という存在に。知識の塊に。今まで見たことすらなかったそれは、未知なる物質であり、同時にこの白黒な生活に華やかな色を見せてくれるものだった。一つ一つ精査された文。難読な漢字。伝わりにくい言い回し。理解こそ出来なかったが、余りにも綺麗で、美しいそれは、見ているだけで楽しかった。

 一目ぼれだった。彼は自分をこんなにも楽しいという気持ちにさせてくれる本が、愛らしくて大好きだった。


 だから、食べた。

 本を。紙を。一ページも残さずに、分厚く加工されている表紙までも、その全てを胃の中に収めた。これで自分にも知識が宿る。一生離れることは無い。本は、自分の中で永遠に在り続ける。


 それからも、本を食べ続けた。空腹であろうと満腹であろうと、本を見つければ見境なくそれを千切り、口に入れる。

 当然、後には何も残らない。本は目の前から消えた。けれど、自分という存在の中にだけ、それがあることが嬉しかった。本を見つけては食べ、また見つけては食べる。普段の生活の中で、そんなことを繰り返していた。


 ただ本ばかり食べていると、流石に飽きてくる。栄養が取れる食事はきちんと摂っているが、もっと知識を、本以上の何かを、彼自身の中に取り入れたかった。

 だから、喰った。


 人を。まず一番身近にいた教育者を。その知識の全てを。余すことなく血とし、肉とし、知識とした。それは今まで味わったことの無い興奮と美しい味わいで、もっと大量の、色々な人間を喰ってみたいと、そう思わせるほどに、生涯忘れることの出来ない味だった。


「ちょっとすみません」

「えっ?」

「少しだけお時間頂いてもいいでしょうか?」


 本を整理していた男は、振り返り、彼を見た。その表情には怪訝と、疑問が浮かび上がっている。

 それも当然で、とっくにこの施設の運営時間は過ぎている。この建物の中には、一般市民は入れないし、いないはずだった。


「あんた、どっから入ってきたんだよ」

「知識というものは最良の選択をしてこそ光り輝くもの。ただ使うだけならば愚者でも出来る。如何に上手く、最小限の範囲で使うかで、賢者かどうかは決まる。――素晴らしいと思いませんか?」

「あんた何言って――」

「失礼。質問への答えになっていませんでした。つい、知の溜まり場に来るとテンションが上がってしまって。何せ今から、わたくしの身体に、知識が流れ込んでくるのですから」


 彼の言葉に、男の表情が引きつる。

 不気味なほど静まり返り、異様な雰囲気を放つ人間。

 男は即座に臨戦態勢に入った。といっても、ただ片手の拳を握り締め、前に突き出しただけ。それは何の変哲もない握り拳で、変わった点と言えば指輪が嵌められていることぐらいだ。

 そんな男とは対照的に、彼はその行動、もっと言えば指輪を見つけ喜び、声を張り上げた。


「そう。それですよ。魔導の指輪。それはわたくしが食してきた中でも、一番美味なるものでした。知識の塊が一気に溢れ出てくる最高の代物。とにかくまた食べてみたいですねえ」

「食べるって……。てめえ、もしかして――!?」

「流石に分かりますか。まあここ最近、派手に暴れすぎていましたから、当然ですね」

「やっぱそうかよっ。――知の探求者ブックイーターっ。今ここで、てめえを捕まえる!!」


 男が叫ぶと同時、突き出された拳に嵌められている指輪から、一筋の閃光が煌めいた。瞬時にその光は辺り一帯を包み込むほどにまで膨張し、やがて、その光の拡散は収束していく。

 彼は目を見開き、驚いた様子を見せる。視界が一瞬、真っ白に塗り潰されはしたが、そちらに関しての問題は無く、ただ男の目の前に突如現れた生物が、彼に驚嘆を、興味を抱かせた。


 それは犬だった。黒い、艶やかな体毛で、口元から見える牙は鋭く尖っており、眼はギラギラと野生動物特有の力強さに溢れている。ただ、体躯も一般的な特徴も、大型犬と変わらないのだが、ただ一点、普通の犬には無い特異がそれにはあった。

 双頭。

 男が呼び出した犬は二つの頭を持っており、それは伝説上の『オルトロス』の特徴そのものだった。


「そういう形の精霊は、初めて見ました。いやはや世界はまだまだ知らないことで満ちていますね」

「口を閉じろ犯罪者。何人の同僚がてめえの犠牲になったと思ってんだ。てめえは俺が捕まえて、犠牲はこれで終わらせる」


 男が話し終えるのを待っていたかのように、黒犬はそれを合図として彼に目掛けて疾走し、飛び掛かった。既存の生物では到底及ばない、初動と加速。避けることは困難に見えた。

 しかし――


「なっ!?」

「ふむ、早いですね。ですが――」


 彼は避けるでも防ぐでも無く、その黒犬の攻撃を躱した。正確には彼は腕を目の前に突き出す以外の動きを、何一つとしてしていない。ただ突っ立っていただけ。それだけで、体当たりしてきた黒犬の身体の半分が消失していた。

 勢いを削がれた肉片は、生々しい音を立てて床に落ちる。


「これはもう、相手が悪かったとしか言えませんね」

「なっ、何をしたっ!?」


 男の声音が恐怖に支配されていく。自分の唯一の聖霊が、わけの分からないまま、しかも一瞬で殺されれば、誰だって困惑するだろう。

 酷く狼狽している男に、彼は近づいていく。男には最早抵抗出来る術は無いのだろう。詰め寄る度に、後退りしている。


「わざわざわたくしの口から説明しなくても、あなたは身を持って、あの犬に起きたことを体験します。安心してください」

「――っ!?」


 直後、恐怖で身体が硬直した男との距離を詰め、彼は――、喰った。


 悲鳴と絶叫を掛け合わせたような、耳をつんざく声が響き渡る。皮を切り裂いた。肉を喰い破った。骨を砕き飲んだ。鮮血は決壊したかのように身体から溢れ出て、床を深紅に濡らし侵していった。警鐘のごとく響いていた声は、喉を喰った時点で鳴り止んでいた。残された音は、汚らしく血を啜る音と、不快な、肉をすり潰す音だけだった。

 時間を掛けて、食事を終えた彼は、男の手に嵌められていた指輪を摘んだ。


「知識は、全て経験に基づくものであり、知識は結局のところ経験から生ずる。その通りだと思いますが、何分わたくしには経験そのものが出来なかったので、人から貰うしかないのです。人からも、そして、魔の装飾品からも」


 彼は嬉しそうに一人呟き、その指輪を飲み込んだ。

 しかし、まだ足りない。最近は図書館を一つ襲うだけでは物足りなくなってきていた。

 幸い時間はまだある。今から行けば指輪にありつけるかもしれない。


「今日行った図書館にしましょうかね。新人が入っていたようでしたし」


 そう言った全てを喰らう化け物は、無人となった図書館を後にした。

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