第一章②

 カラド=ファブロ・ブラックスミスが司書官として働き始めたのが、このおよそ半日後のこと。

 抵抗するのも面倒なので、いけ好かない部屋から出され、流されるままに着いた場所は――


「それで、君がこれからここで働くカラド=ファブロ・ブラックスミス、でよかったか?」

「……ああ」


 カラドは、今にも崩れそうなほどに積まれてある紙の山に向かって、そう返した。

 ブリューゼル第八図書館。第三大図書館からそのまま連れてこられた場所がそこだった。先程男と喋っていた場所よりは息苦しさは無く、極めて事務感に溢れていたが、物の量が多すぎて、違う意味で息がつまりそうだった。


「よし、出来た」

「えっ!? ちょっ――」


 紙山の向こうから聞こえてきた女性の声と共に、机が大きく揺れた。もちろんその振動で、カラドの首ぐらいにまで届く高さの紙山は崩落していく。

 とっさに、カラドは崩れ落ちそうになるそれらを体全身で支えに入る。何とか紙の散乱を防ぐことに成功したが、少しでも動けばその努力も無駄に終わりそうだった。


「おや、君は何をしているのかな」


 少し前までカラドの正面から聞こえてきていたその声は、今度は真横から聞こえてくる。生憎顔面でも紙を支えているのでそちらに視線を向けることは叶わない。それでも口は開くので、なんとか助けを求めようと声を掛ける。


「何って……」

「紙を支えてくれているのならば、ありがたいことだが別に散乱させてしまっても構わない。紙が大好きで大好きで仕方なくて、この紙の山を見たらいてもたってもいられなくなってしまった、というのならば好きにすればいいが」

「ぐっ、そんな風に見えねえだろうが……!!」


 援護は期待出来そうに無く、仕方なく一人で元に戻す。少しずつ、慎重に紙をずらしていき、ようやく机に乗せ終わった時には、小さい何の嬉しさも湧き上がらない拍手が響いた。


「いや、まさかあれを一枚も落とすことなく机に戻すとはな。おかげで掃除する手間が省けたよ」

「そりゃどうも」


 カラドは無駄に労力を使いヘトヘトになりながら、声の主に向き直る。

 朱色の髪が目を引く、整った顔立ちの女性がそこにいた。背はそこそこに高く、女性らしいスタイルをしており、素直に美人だと思えた。耳に付けられている瑠璃色のイヤリングにも目を惹かれる。


「それで、俺何も聞いてないんだけど?」

「ああ、これに書かれていることを読んでくれ。話はそれからだ」


 女性が一枚の紙を投げて渡す。受け取り、そこに書かれている文字に視線を落としたカラドは絶句した。その内容は――


 【働いている図書館から離れないこと。万が一離れる場合には担当司書官の許可を受けなければならない。またそれに際して、寝泊まりは図書館の別棟ですること。

 担当司書官の評価を受けること。『是』か『非』かいずれかの評価を貰わなければ、半永久的にそこで働かなければならない。

 評価が『是』である場合、無罪放免。『非』である場合、しかるべき処置をこちらで案じさせてもらうこととする。

 以上のことを踏まえた上で、カラド=ファブロ・ブラックスミスにセントラル第八図書館で奉仕するよう命ずる】


 目を通した直後、カラドの怒りは堰を切ったように爆発した。


「ふざけんなっ、何だよこれ!!」

「ちなみに少しでも何かことを起こせば、即罪人認定だそうだ」

「罪が無いかもしれない一般市民に対して、ここまでするかよ普通?」


 薄々感づいていたことだったが、それでも叫ばずにはいられなかった。

 カラドはこの怒りをどこにもぶつけられず、ただ腹の内に溜め込むことしか出来なかった。

 一体自分が何をしたというのだろうか。決して裕福ではなかったし、円満とは言えない家庭の中で暮らしてきたことが悪かったのか。司書官になろうとしたことが駄目だったのか。あの日、図書館に行ったことが罪だったのだろうか。

 突如崩壊した日常。そのことを受け止めきれるはずも無く、カラドは無限に湧き続ける疑問と怒りをまずは静めるよう努める。


「取り敢えずリラックスだ。少し待て、お茶を用意しよう」

「……」


 包み込むような落ち着いた声音に、ほんのわずかだが、その刺々しい感情は幾分穏やかになっていた。女性が部屋から出て行くのを、視界の端で見届ける。

 急に、辺りが静かになったような気がした。聞こえてくるのは秒針が時を刻む音だけで、それ以外に音と呼べるものは無い。


 何気なく、部屋を見渡す。壁は本棚で埋め尽くされていて、その本棚にも余すことなく本が並んでいる。簡単なテーブルと椅子が部屋の中央に置かれているが、そのテーブルの上にも本が積まれており、とても物を置ける状態ではない。

 それでもこの部屋は居心地良く感じた。よく行く図書館と、似たような雰囲気を感じ取ることが出来る。私利私欲に支配されない、ただ純粋に知識を獲得するためだけの本。そういった本に、今もまた囲まれている。そのことが嬉しく、そして何より、安心出来た。


 鼻孔をくすぐる古書の香り。色褪せたページ。寒色を基調としたお堅い本の背表紙。無造作に開かれた辞書よりも分厚い書物。それら全てが一種の彫刻品のように、美しく、永遠のように思える。カラドは、自分自身が思っているよりも、本が好きだった。


「待たせた。すまない、結構探したんだがコーヒーしか無かった」

「え、ああ。悪いな」


 部屋を、本を見ているだけで、時が経つのを忘れ、怒りもまた同様に、いつのまにか収まりを見せていた。テーブルの上に乗せられた本をコースター代わりにして置かれたカップを手に取り、カラドは口元に運ぶ。


 今まで古書の香りしか匂わなかったが、部屋にはコーヒーが作り出す香ばしさが充満していた。口に含めば、ほろ苦さが広がり、湯気が立ち込めるそれはカラドの苛立った心を包み込む程度の適温で、身体に染み渡っていく。

 カラドの理不尽に対する怒りは、部屋を覆う雰囲気と、このコーヒーで、もう完全に鎮火していた。


「どうだ? 最高級の豆、とまではいかないが、それに勝るとも劣らない豆を使ったコーヒーだ。まあ淹れることに関しては素人もいいところだから、味が良くないことは大目に見てほしい。香りでも楽しんでくれ」

「悪いな。わざわざ……」

「なんだ、さっきから謝ってばかりだな。君は別に謝るようなことは何もしていないだろう? 寧ろ私に怒ってもいい場面のはずだ」

「……そうだな。ありがとよ」

「うん、そうだ。どうせ言うのならプラスの言葉でないとな」


 女性はカップを揺らしながら微笑んだ。大人びていて、口調も決して柔らかいものではないが、その子供らしさを感じさせる笑みは、そういったイメージとは対極的だ。

 カラドは、そんなゆったりとした、けれどどこか幼く見える女性の表情に、つい視線を向けてしまう。好意で見ていなかったとは言い切れないが、この状況で、人一人を落ち着かせる余裕が、何より格好良く見えた。含まれるのは、多分に尊敬の念だ。

 視線が重なり、やましいことはしていないのに、何処か気恥ずかしくなって目を逸らす。そのことにも、そしてこの空気にも我慢出来なくなり、カラドはカップを本の上に慎重に置いて会話を切り出す。

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