幕間①

 余り良い暮らしとは言えなかった。

 生まれた頃の記憶はほぼ無く、もの心がついた時には既に孤児院にいた。だから贅沢を知らない。勉学など二の次で、その日を生きるための生活に手一杯だった。


 それだけでも、別に構わなかった。不安ではあったが、毎日が楽しかった。そこに不満は無かった。孤児院の指導者とも親しかったし、一緒に連れてこられた弟や同じぐらいの子供たちと仲良くすることが出来た。

 知識なんて無くとも、そこには自由があり、心が豊かになる生活があった。

 そして今日も、日課である森への散策。食卓に並びそうな食材を探しに出たのだ。



 今日も大量だった。

 キノコに野草。香草に何種類もの果実。これだけあれば、孤児院全員に満足に行き渡ることだろう。


 鼻歌交じりに、上機嫌に帰路につく、その途中、少年は見慣れない影を見た。

 いつも散策しているから分かる。その影はこの森に普段いない存在だと。恐怖よりも先に、好奇心が芽生え、気配を消して少し近づいてみることにする。

 人間のようだ。それもとても強面で、背も高く屈強な体躯をしている。

 こんな所で何をしているのだろう。そう思う少年は無意識に一歩踏み出してしまっていたらしく、枯れ枝を踏んで静寂が蔓延る森に砕音を響かせた。


「誰だ?」

「え、いや」


 その鋭い眼光に、戸惑ってしまう。どう行動したものか、逡巡している内に、その体格の大きい男が近づいて来る。

 近くで見れば、その大きさに益々驚く。まるで巨人のようだった。


「小僧。こんな所で何してる」

「え、えーと。食材を取りに……」


 男は少年が手にしているカゴを覗き込む。方々歩き回って手に入れた貴重な食料。もしかして取られてしまうのではないか。そんな不安が生じる。


「そうかそうか。その年で食材探しとは、感心感心」


 何処に納得したのか、男は大仰に頷き、そして豪快に笑い始めた。

 全く展開についていけず、唖然としている少年。取り敢えず、悪い人間では無さそうで、緊張した身体を緩める。


「小僧、名前は?」

「……ジークフリート」


 言うべきか迷ったが、悪い人でもなさそうなので、正直に答えた。正直に答えてくれたことが嬉しかったのか分からないが、男は再び笑う。


「良い名だな。俺はレギンっていうんだ。よろしくな」


 手を差し出してきた。体格通りの、大きく何もかも包んでくれそうな手。少年ジークフリートもまた、その手を取った。


「お前、綺麗な指輪をしているな」

「これは父の形見、らしいんだ。何時の間にか指に嵌まってたから、詳しくは知らない」

「……なるほどな。ところで話は変わるが、お前どこに住んでんだ?」

「森の近くにある孤児院。なんでそんなことを聞くんだよ?」

「いや、単純に興味を持っただけだ」


 男はそう言うと、踵を返し背を向ける。


「また明日、会えるか?」

「森の散策は日課だから、時間さえ合えば会えるよ」

「そうか」


 男はそのまま森の中へと消えて行った。一体どこの誰なのか、謎に包まれた男だったが、手に持っているカゴの存在を思い出し、足早に孤児院に戻った。



 数時間前に、そんな会話を交わしていた。陽は落ち、夕食も済ませ、後は寝て次の朝を待つだけのはずだった。

 それは唐突に訪れた。

 熱い。突き抜ける風も、照らす明かりも、感じる気温も、何もかもが、アツい。

 何かが焦げた臭いがする。誰かを呼ぶ声がする。目の前に広がる光景は、ただ真っ赤な揺らめく波。


「カードルト!! みんなっ。何処に……っ」


 叫ぶ声は巻き起こる轟音に掻き消される。視界には誰も映らない。声だけが聞こえ、その声も、次第に聞こえなくなってくる。

 皆無事に逃げ切れたのだろうか。それならば、良いのだが。

 自分自身の身よりも、少年はまずこの孤児院にいた人たちの無事を祈る。もう、足は動かなくなっていた。

 息をする度に、肺を焼くような熱気が入り込む。全身から水分を奪われるような灼熱と充満しているガスが思考を止める。


「みんな……」

 最早、身体を支える気力も残っていない。少年は膝を付き、倒れ伏した。

 昨日までは、寝る前までは、幸せな生活がそこにはあった。裕福では無かったが、満足していた。

 けれど、それは今はもう何処にも無い。全てを一瞬で、紅い悪魔は奪い去っていった。


 自分も、そうなるのだ。何も残らない。何も残せず、この世を去ることになる。そんなこと、許されない。けどそこから逃げ出せない。この悲劇を受け入れる他、無かった。


「気を強く持てよ、小僧」


 諦めていた少年の耳に、何かが届く。それが一体何なのか、意識が薄くなっているので判別は出来ない。

 ただ、気付いた時には、炎でも空でも無い、天井がその瞳に映っていた。


「ここは?」

「気付いたか。ここは昨日お前と俺が出会った森。そこに建てている俺の隠れ家だ」


 カップを持った男は身を起こした少年に、笑顔でそう告げた。


「……孤児院のことは、残念だったな」

「……っ」


 自然と、毛布を力強く掴んでしまう。目の前に迫る炎。その光景が、今も脳裏に焼き付いている。

 現実とは到底思えなかった。眼を閉じて、起きればまた見慣れた顔を見れると、思っていた。

 しかし、望んだ朝は来なかった。気付けば、全てが奪われていた。


「俺は、俺は……」


 突如、怖くなった。全てを失った自分が。何も持たない自分が。

 自分は一体、どんな存在なのだろう。孤児院という施設に預けられていた。そこでは曲がりなりにも施設の人間ということになっていた。


 ならば今は。何処に属さず、守ってくれる存在も、守る対象も、いない。

 ジークフリートには、何も無かった。

 失ったものよりも、失ったことが悲しい。涙こそ、零れなかったが、胸が刺されたように、痛かった。


「お前、これからどうするんだ?」

「……分かんねえよ。これからどうなるかなんて」


 住むところなんて、当然あるはずも無い。頼れる当ても無い。明日からどうするかなんて、考える余裕も無い。

 自分には、何も無いのだから。


「俺のところに来ねえか?」

「……え?」

「部屋は余ってるんだ。お前さえ良ければ、ここで暮らさせてやる」


 耳を疑った。大して親しくも無い、出会ったばかりに等しい人間に、部屋を貸してくれる。嬉しい話ではあるが、申し訳ない気がする。


「遠慮はすんな。余らせてるぐらいなら、使った方がいいしな。その代わり、色々と働いてもらうが」


 ただで、というわけにはいかないらしい。ジークフリートとしてもそちらの方が、幾分か気が楽だ。

 ジークフリートは有無を言わさず、首を縦に振った。



 それからの日々は充実したものだった。

 剣術を教えてもらったり、レギンの昔の話を聞かせてもらったり、生活に必要な食物を捕りに行ったりとそれまでとは大して変わらない、強いて言えば剣術の稽古があるぐらいだが、それを含めて、楽しい日々だった。

 月日はあっという間に、それこそ、まるで物語でも読んでいるかのようなスピードで、過ぎ去っていった。


「なあ、ジークフリート」

「なんだ? 改まって」


 随分と、レギンも年老いてしまった。未だにその気力だけは若々しいが、年には勝てず、白髪や皺が目立つようになってきた。


「実は兼ねてから話そうと思っていたんだが……」


 レギンの話はこうだった。

 自分には兄がいる。その兄は人々から宝を奪う悪人で、そのためには人も平気で殺す。その悪党を対峙して欲しい、ということらしかった。


「レギンが行けばいいんじゃねえの?」

「俺では駄目なんだ。お前は俺よりも剣術の才が秀でている。俺よりお前の方が勝機はあるんだ。それに……」


 レギンはわざとらしく言葉を区切った。


「兄は、お前の父を殺した張本人だ」

「何!?」


 それは予想外の言葉だった。自分の耳がおかしくなったのかとも思ったが、そうでもない。レギンは、確かに父と言った。


「親父が……」


 ジークフリートに父がいた記憶は無い。いたのだろうが、気付けば既に孤児院の中で、そういった存在は一生耳にすることは無いと思っていた。

 だから、特に父に思い入れがある、というわけではない。他人が死んだような感覚に近かった。それでも、何処かから来る、黒く深い感情をどうしても無視出来ない。


「……分かったよ。やりゃあいいんだろ」

「助かる。兄はフランケンという山にいる。必ず、倒してきてほしい」


 恩人の頼みを無下にするわけにもいかない。ジークフリートは渋々、レギンの兄がいるという山に向かった。

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