第57話 初めての喧嘩

 「むぅぅ……んふぅ……んむ……」


 柴田は柘植野の話なんて少しも聞きたくなかった。だからずっと唇を押し付けてふさいでいた。


 柘植野の腰を抱いて、華奢な身体にのしかかるように胸板を押し付けた。


 柘植野に肩をバシバシ叩かれて、ようやく唇を離した。


「ぷは! はぁ……はぁ……は……は……」


 柘植野はぼんやりとした顔で息継ぎをした。うつろな目に涙が盛り上がって、ぼろぼろとこぼれた。


「柴田さんが、こんな勝手をする人だなんて思ってなかった!」


 柘植野は肩を落として、うなだれた。


「ごめんなさい!! 柘植野さん——」

「僕が細くて弱そうだからですか!? 乱暴しても喜ぶドMとか思ってますか!? だから僕に近づいたんですか!?」


 柘植野の怒声どせいは激しかった。


「乱暴だなんて……違うんです、ごめんなさい、待ちきれなくて」

「愛情でするキスと乱暴なキスの違いくらい分かります! 何が不満なんですか? 何に怒ってるんですか? それとも本当に、僕を痛めつける趣味があるんですか!?」


 柘植野は自分の太ももを殴った。柴田は慌ててその手を包み込んで止めた。


「怒っては……。怒っては、なくもないっていうか……。聞きたくなかったんです!! なんで全部子ども扱いするんですか!? 確かにおれは童貞だけど!! 全部『教えてあげる』みたいに……!!」

「子ども扱いをしてるんじゃない。最初だから丁寧にリードしようと思っているだけです! 初めての経験をいきなり上手くできるはずないでしょう?」


 柘植野の言い分は圧倒的に正論だった。美しい瞳に涙を浮かべて言われると、ぐうの音も出なかった。


 そもそも、柴田は柘植野にリードしてほしい、自分からするなんて上級者すぎる、と思っていたのだ。

 それなのに、柴田の心の底に溜まったモヤモヤは晴れない。


 それは、柴田が慣れた手つきで柴田に触れるたびに、柘植野が同じように触れてきた何人もの男を想像してしまうからで……。

 嫉妬以外の何物でもなかった。


「……でも、でも、柘植野さんにリードされるたびに、柘植野さんは誰にこれを教わったんだろうって——」

「やめて。僕の最初の相手の話は今後一切しないで。約束して」


 柘植野の声はやいばのように鋭かった。それなのに柘植野は、細い肩を震わせて泣いていた。


「ごめんなさい……」


 柴田も泣き出したら止まらなかった。


 これでおしまいなんだ。やっぱりおれがバカなことで怒り始めて、めちゃくちゃにしちゃうんだ。

 ラブレターのときは、柘植野さんはずっと優しかった。でも今回は、こんなに怒らせてしまった。

 もう、おしまいなんだ。


「……いいえ。僕が先に言っておけばよかったことですから」


 柘植野はかすれた声で言った。顔は横を向いて、柴田を見ない。

 伏せた目のまつ毛が濡れていた。


 柴田はまだ柘植野の手を握っていた。

 初めての恋人と、初めての喧嘩をした。だから、この手をどうしたらいいのか分からなかった。


 この手を離して、空き缶の片付けをして、黙って帰るのがいいんだろうか。

 柘植野さんをこんなに怒らせたおれには、それしか選択肢がないんだろうか。

 でも、まだ柘植野さんが好きだ。


「……柘植野さん、手を握っていていいですか。それは嫌じゃないですか。それとも、もう嫌ですか」

「嫌じゃないです。悪夢が早く去るように、抱きしめてくれますか」


 柴田は涙を浮かべて、柘植野をそっと抱きしめた。


「柴田さん、浅井は僕をビッチと呼びます。確かにそんな時期もありました。でも、あなたが今抱きしめてくれるから、もうそんなこと必要なくなったんです。だから、過去のことはそっとしておいて」

「分かりました。でも、どうして」

「あなたとなら、長く一緒にいられると思ったので。……僕の思い上がりでしょうか」


 柘植野は、哀しみの表情を残しながらも、可憐な花のようにはにかんだ。


「おれ、バカなこと言ってこんなにめちゃくちゃにしちゃったのに……」

「バカじゃないです。不満を素直に教えてもらえて、助かりました。こういうカップルは長続きするものです」

「……ありがとうございます!」


 柴田は感激して目を輝かせた。やっぱり年上の恋人は頼りになる。


「僕も投げやりな恋愛しか経験がないから、ネットの記事に書いてあったことを言っただけですが……」

「ええー!? そうなんですか!?」

「でも、もっともな理屈だと思いませんか? ねえ、僕も誠実にお付き合いするのは初心者なんです。2人とも初心者マークで、お願いしてもいいですか?」


 柴田は感激で言葉に詰まった。

 うんうんとうなずいて見せると、柘植野はまたぱあっと笑った。


「僕は、今度の喧嘩は怒鳴り合いにならないようにがんばろうと思います」

「おれもです!!」


 こうやって何度もめちゃくちゃになって、そこからどうやって大丈夫にしていくかが、お付き合いの難しさなのかな。


 今は、おれがめちゃくちゃにして柘植野さんが直してくれるばっかりだ。

 子ども扱いされたくないと言いながら、柘植野さんに甘えてた。


 柘植野さんとの縁が、つながってよかった。


「ねえ、柴田さん? 気持ちいいキスをしたいです」

「……おれもしたいです。教えてください」


 柘植野の「2人とも初心者マーク」という言葉が、柴田の心を軽くした。素直にリードされようという気持ちになった。


「力を抜いて。そう……」


 柘植野の唇が、ふんわりと触れてゆっくり押し付けられる。柘植野は、場所を変えてやわらかいキスを繰り返す。

 そのうちに、柴田は唇にふれられるだけでくすぐったい気持ちになってきた。


「ん……ふふ」


 思わず声が漏れてしまって、柴田は恥ずかしくて笑った。


「気持ちいい?」

「くすぐったいです」

「それが気持ちいいってことですよ」


 今度は、柘植野は柴田の上唇ばかりを責める。

 唇をこすり付けたり、ふにふにと食んだり、ちゅっちゅっとバードキスを落としたり。


 柴田の身体は火照ほてってきた。

 全身がそわそわして、脳がぴりぴりとしびれるみたいだ。


「アッ」

「気持ちいい?」


 柴田はうつむいた。突然上唇をめられて、声が出てしまったのが恥ずかしかった。


「恥ずかしい? もうやめる?」

「柘植野さ〜ん……。めちゃくちゃエッチなことしたいです〜!! セックスしたいですー!!」


 柘植野は目を丸くして、柴田を抱きしめた。


「ん〜……。僕が素面しらふのときまで待ってくれませんか? 最初だし、ちゃんと全部覚えておきたいんです……」


 柘植野の瞳はうるんでいて、柴田は「いやです」とは言えなかった。


「……いやでも柴田さんとセックスしたい! したいです! しましょう! あ〜でも柴田さんとの思い出が〜……。飲むと記憶飛ぶタイプなんですよぉ〜……」


 耳元でごちゃごちゃと言われる。

 柴田は「柘植野さんは思ったより酔ってるな」と思った。


「ああ〜でもセックスしたい、したいんです、何ヶ月ぶりだと思います!? 5ヶ月です、5ヶ月ぶりなんてことがありますか!?」

「おれは20年間でゼロ回なんで、なんとも……」

「するかしないか決められない……。いっそ理性が飛ぶまで飲めば楽だったのに……!! 柴田さん、どうしたらいいですかぁ〜?」


 柘植野は柴田の背中をぎゅっと抱きしめて、へにゃへにゃの声で聞いた。

 今の柘植野さんって結構な酔っ払いだな、と柴田は思った。やむを得ない……。


「記憶が飛んだらきっと後悔しますよ。今日はやめましょう。おれは待ちますから」

「はい……。ごめんなさい。決めてくれてありがとう」

「次は柘植野さんから誘ってくださいね? 恥ずかしかったので!」

「もちろんそうします!」


 はしゃいで言う柘植野は、少し眠そうだ。


 あれだけ飲んだんだから、そりゃ素面しらふじゃないよな。柴田は呆れた。


「気持ちいいことはしましょうか。このまま帰したくないから」


 柘植野は柴田の正座の脚の間に手を滑り込ませて、「カチカチですね」と耳元でささやいた。

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