第43話 浅井の涙
「おい、自分の家だろ。しゃんとしろ」
柘植野は浅井に引きずられるように自分の部屋に戻った。
「ショック受けてたな」
「……」
「お前、柴田くんに何やらせてんの? あの子の実家のこと知っててやらせてんの?」
「実家……? 不仲としか知らない」
浅井は深いため息をついた。
「あの子の親は金持ちなのね。で、あの子は、親がのびのび働くために1人で家事を全部やらされてたの。部活も入らず、受験勉強の時間も削って家事をやってたの。そのせいで一浪したのに、親にはディスられるわで……」
浅井は荒い息をついて言葉を切った。
「それで、柴田くんが出ていくときに『この家の家事は誰がやるのか』って聞いたらなんだと思う? 家事代行を雇えるんだと!!」
浅井の語気は荒い。柘植野は、浅井がこれほど誰かに肩入れして怒るのを初めて見た。
いや、大学時代、2人がスレた大人になる前には、こういうことがあったかもしれない。
「自分らの産んだ子だぞ? 家のこと全部やらせるために産んだのかよ!? 家の切り盛りくらい計画してから子育てをしろよ! 楽しく激務
浅井は激しく息をついた。
「あの子から聞き出した情報で調べたんだよ。両親とも同じメーカー勤務で、母親は経営幹部、父親は研究部門の部長だ。あの子を犠牲にしてキャリアに全振りしてんだよ! 金持ちのくせにケチケチしやがって……! あの子はシンデレラか!?」
柘植野は口をつぐんでいた。
柴田のことも、浅井のことも、自分は何も知らなかったのかもしれない。何かしゃべったら、泣いてしまいそうだった。
柴田は、妹も弟も、少しも手伝ってくれないとぼやいていた。
いくつ歳の離れたきょうだいかは知らない。
それでも3人きょうだいで、長男だけが家のこと全部を受け持つなんて、あんまりだ。
「ケチケチしたクソ親どもが、あの子の青春全部奪ったんだよ! それなのに受験では無理難題押し付けて、マジでクソ……。あの子は、ほんの少し家事代行をケチるために、誰にも感謝されないでずーっと家を切り盛りしてた……」
浅井は顔を背けた。
声が震えていた。泣いているんだと分かった。
柘植野は、浅井がここまで誰かのために怒って泣く人間だとは思っていなかった。言葉が出なかった。
「おい。聞いてんのかよ!」
「……知らなかった。それなのに、なんで僕には……」
「食レポレベルが100で? ファンレター?をくれるから、らしいわ。まあ、お前はあの子を傷つけないだけの対価は与えられてるんだろ」
柘植野は黙って、目に涙を浮かべた。
「もう引き返せないぞお前。分かっただろ」
「分かった」
柘植野はかすれた声で、でもしっかりと答えた。
自分のファンレターが、柴田さんの深い傷を埋めるものだと理解した。
だから柴田さんは、渇いた植物が水を求めるように、感想が欲しかったんだ。
「おいしい」のひと言でもきっとよかった。
でも僕には言葉の力があったから、柴田さんを深く深く満たすことができた。
柴田さんは僕を必要としている。僕は柴田さんに渡す言葉をいくらでも持っている。
ここで立ち去るわけにはいかない。
「柴田さんが『もうお腹いっぱいですよ』と笑ってくれるまで、僕はファンレターを書く」
柘植野は、噛み締めるように決意を口にした。
「なんか決意してるとこ悪いけど、柴田くん次第だからね。もうお前とは関わりたくないかもよ」
「……そうだね」
泣きたくないのに泣いてしまった。
自分はずっと間違えていた。
若者と関わればどちらかが傷つくかもしれないのに、踏み込んだ。
好意を持たれていると分かっていたのに、気づかないフリをした。
自分の中の好意を
ずっと柴田さんを傷つけている。
もう、柴田さんを大切にしたいなら、「あなたが好きです」と伝えるしかないんだな。
柴田さんが、僕を受け入れてくれるなら、だけど。
「一応焼肉行くか聞いて帰るけど、行かないだろうなあ~。ショック受けてたもんな。お前が本性隠してたせいで」
「そうだね。割り込んで悪かった。焼肉行けそうなら、楽しんで」
「お前のそういう、割り切ったふうの強がりを言うところが嫌いで好きだよ」
「柴田さんを
浅井はケラケラ笑って玄関に向かった。柘植野はこの男が心底嫌いだと思ったが、笑い声に救われたのも事実だった。
「悪いけど、口説き文句なら僕が
「ふーん? 作家先生のぽわぽわした口説き文句と? エリート営業マンの地に足の付いた口説き文句と? どっちが上手でしょうねえ?」
「僕に決まってる。青少年はぽわぽわが好きなんだ」
「ふふん。
浅井はいつものように薄く笑い、出ていった。
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