第40話 あなたのにおい

 柴田が授業に戻ると言うので、柘植野は懐かしいキャンパスを文学部棟まで着いていくことにした。


「柘植野さんの香水、いいにおいですね」


 びっくりして隣を歩く柴田を見ると、頬を染めて目を逸らす。


「柘植野さん、いつもいいにおいだから覚えちゃいました」


 今度赤面したのは柘植野の方だった。


 確かに今日は香水をつけている。でも家で会うときはつけていないことの方がずっと多い。

 それに、いつも同じ香水をつけているわけでもない。何種類かを使い分けている。


 ということは、柴田さんが「覚えちゃった」というのは、僕自身のにおいなのでは……?


 無自覚に口説かれているようで、そんなに意識してしまっている自分が恥ずかしくて、柘植野はうつむいた。色白な頬は赤いままだ。


 柴田と別れて、電車で家に戻る間もぽーっとしていた。

 自分が浅井より先に「僕があなたの憧れの人です」と切り札を切れば、柴田さんは僕を好きでいてくれる。


 いっそ言ってしまったらいいんじゃないだろうか? 柴田さんの好意を無視することで、僕は柴田さんを傷つけているんじゃないだろうか? それなら柴田さんの好意を受け入れて……。


 でも、僕は柴田さんの「好き」に応えるほどの「好き」を持っているだろうか?


 何年も恋をしていない。今恋をしているのかも分からない、なんてティーンエイジャーみたいなことを思う。

 僕は柴田さんに恋をしているんだろうか? 本当の意味で、柴田さんが僕を好いてくれるように柴田さんを好きになれるだろうか?


 家に帰り、リュックを下ろしてベッドに横になる。デニムと下着を脱いで下半身だけ裸になる。


 恋だの愛だの考えていると、思考は性欲の方へつながってしまう。そんなふうに生きてきた自分が情けない。でも恋より、愛より、性欲はずっとシンプルで扱いやすい。壊れたら次のを持ってくればいい。


 まだふわふわした頭で、何も準備せずしごき始めた。やわらかいそこは、手に刺激されて少し芯を持ったが、それ以上勃ち上がってこない。


 オカズなしじゃ無理か。しかし今からスマホを取りに立ち上がるのも面倒だ。ここは官能作家になりきって、妄想だけで自分が満足するオカズを生み出すしかない。


 ——男の手がそこに触れると、柘植野は「やぁ」と細い声を上げて身をよじった——


 よしよし、いい感じに興奮してきた。

 映像より文字派の柘植野は普段のオカズも官能小説だし、こうして自給自足することも少なくない。


 ——男が柘植野の顔の横に手をつき、柘植野からは太い腕からつながるたくましい胸筋の盛り上がりが見えた——


 柘植野は筋肉フェチである。


 ——男の身体は汗ばみ、柘植野は力強い雄の汗を間近で嗅いだ——


 柘植野の脳内は盛り上がっていたが、男の汗のにおいがやけにリアルに想像できるのに困惑もしていた。


 なんでこんなにリアルなんだ……いや、これ、柴田さんの汗のにおいだ!! さっき炎天下を歩いたときに嗅いだにおいだ!!


「わー!! 最悪!! 人として最悪!!」


 柘植野はすっかり落ち込んで、自慰どころではなくなっていた。


「知り合いをオカズにするなよぉ〜……」


 罪悪感で力が抜けて、少しも動けない。よりによって柴田さんを。あんな明るい、裏表のない青年を、オカズにしようとしてしまった……!


 柴田の汗のにおいがまとわりついて離れない。それどころか、この家にもかすかに漂っている気がする。いつもここで料理してもらっているから、当たり前なのかもしれない。


 意識し始めたら、ますます鮮明ににおいを思い出す。そのにおいが好きだと思う。もっと近くで嗅ぎたいと思う。胸がきゅうっと切なくなる。


 あー、僕は柴田さんに恋をしています。


 こんな行為のついでに、下半身裸で自覚したくなかったなぁ……。

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