第36話 怒っていたかっただけ

 水曜日の夜、柴田さんは用事があるので夕ご飯はなし。海野屋でバイトなら食べに行こうかと思ったが、そうでもないらしい。友達と遊びに行くんだろう。

 柴田には柘植野が知らない人間関係がある。あんなに明るい性格だから、きっとたくさんの友人がいるに違いない。そんなことを想像して、寂しくなるのはおかしいのだけれど。


 粕川かすがわのシフトとバッティングしないように、コンビニへ夕飯を買いに行く。しかしコンビニの前にはアイスを食べている粕川がいた。

 粕川はぎこちない笑顔を作る。柘植野は「やあ」とだけ言ってコンビニに入ろうとした。ほかに言うことなんて何もなかった。


「柴田くんと恋愛やる気なんですか!」


 粕川の声が追いかけてくる。


「そんなの糀谷こうじやさんが先輩にしたことを——」

「やめて」

「立場を逆にして繰り返してるだけですよ!」


 粕川の大声に、慌てて店長が飛び出してきた。


「いえ、なんでもないです」


 柘植野は平坦な声で言い、粕川には目もくれずコンビニへ入った。

 豚しゃぶサラダと昆布のおにぎりを買う。何も考えられないときは勝手に手が動いてこの組み合わせを選ぶ。


「袋はなしで、お箸はお付けしますか?」

「いえ、大丈夫です。ありがとうございます」


 レジの店員は若い女性だった。大学生だろうか。柴田と同い年くらいに見えた。

 初めて見る顔で、まだアルバイトに不慣れな様子だった。必死に業務をこなしながら、がんばって笑顔と明るい声を保っているみたいだった。レジを打ってもらっただけで応援したくなる、感じのいい人だった。


 ——立場を逆にして……?


 糀谷には、当時の僕がレジの彼女のように見えていたんだろうか? 分からないことばかりで、必死に食らいついて、それでも明るく人間関係を作っていこうとする若者に。

 それでいて、どうして僕をあんなふうに扱ったんだろう?

 どうして、どうして!! がんばっている若い人に対しては応援する選択肢しかないと思わないか? そんなのお人よしの性善説でしかないんだろうか?


 夏の夜のまとわりつく湿度の中で、柘植野の心は急速に冷めていった。そして醒めていった。


「糀谷先生」


 泣かずに名前を呼べた。もう、どうでもよかった。ばかばかしいくらいに軽い感情しか残っていなかった。


「糀谷……」


 下の名前はなんだっただろうか。3文字で、「し」で終わる名前だった気がする、それしか思い出せない。


 ああ、10年経ったんだ。


 家に帰って、柘植野は泣いた。隣室に柴田がいないから声を上げて泣いた。


 癖で右耳のピアスホールに触る。塞がってしこりになっている。

 傷はとっくに癒えていた。


 震える手で日記帳を開いた。3年前に買った10年日記だ。3年前に、僕はその先10年生きる心づもりができて、10年日記を買った。25歳だった。

 その年までは、自分があと10年生きるなんて思えなかった。

 10年生きてみようと思ってから、もう3年が経っていた。


「僕はとっくに立ち直っていた?」


 震える字で書き込んで、クエスチョンマークを塗りつぶした。


 ああ、僕はとっくに立ち直っていた。


「僕を10年も閉じ込めていたのは、僕自身だったんだ。立ち直っていないフリをしていた。ピアスホールの痕をいつまでも傷つけて、自分の心もまだこんなに傷ついていますよって、誰も聞いちゃいないのに自分自身に証明していた」


 ぐしゃぐしゃの字で一気に書いた。涙がページに落ちて水性インクがにじんだ。もう日記帳に今年分のスペースはなかった。でも柘植野は書き続けた。


「怒っていたかったんだ。いつまでも糀谷を憎んでいたかった。自分の若さゆえの無知や失敗も全部あのひとに押し付けて、ずっと憎み抜いていたかった。それが復讐だと思っていた。忘れることはあのときの自分への裏切りだと思っていた」


 柘植野は大きく肩で息をして、ペンを置いた。涙と鼻水をティッシュで拭った。


「憎み続けなきゃいけないと思ってた」


 つぶやいて、柘植野はまた大声で泣いた。


「違うんだ、そうじゃなかった、怒るのが気持ちよかっただけ、怒りというぬるま湯に10年も浸かって気持ちよくなっていただけ」


 柘植野は顔を覆ってベッドに倒れ込んだ。ぬるい涙は、すごく薄い経口補水液みたいな味がした。


 涙は、悔しいときにはしょっぱく、悲しいときや嬉しいときには薄味に感じられるというトリビアを思い出した。

 柘植野の涙は、解放された喜びの涙だった。

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