第30話 カッコつけのタバコ

 柘植野が会議から解放され、ビルの外に出ると薄暗くなっていた。

 まずい、と思い柴田に連絡する。


『連絡が遅くなってすみません。今から30分くらいで帰ります。夕ご飯はなしでいいです』


 それから柘植野は、電車の乗り換えの途中に、ロータリーのある駅前の喫煙所でタバコを1本吸った。


 浅井との縁が切れた。柴田さんとの縁はつながった。

 柘植野は晴れやかな気分で、いつもと違うことをしたくなったのだ。


 しかし、ぎゅうぎゅう詰めの喫煙所で吸うのでは、気分が上がるどころか面倒なだけだった。

 それに鼻の通りが悪い。たぶん風邪を引くだろう。

 柘植野はまだ残っているタバコを消して、家に戻る電車に乗ろうと駅へ向かった。


 駅の催事コーナーでは、アップルパイを売っていた。柴田にあげようと1つ買う。

 電車に乗って最寄駅で降り、柴田の部屋のドアベルを鳴らした。


「柘植野さん!!」


 部屋から飛び出してきた柴田の声は、廊下にわんわん響いたが、本人は気にしていない。


「ごめんなさいね。心配をかけました。これ、少しだけどお詫びです」

「心配しましたよぉ~。お菓子? ありがとうございます」


 柴田は菓子箱を台所に置くと、素早く柘植野を抱きしめた。


「柘植野さん~~……。お仕事も大丈夫でしたか?」

「大丈夫ですよ」


 柘植野は戸惑った。柴田は自分を「いつでもハグしていい人」認定したんだろうか!? 


 そっとツンツンとした髪を撫でてみる。触れ合った柴田の頬はとても熱くて、軽い気持ちでハグしているわけではないと分かった。

 柘植野がもう一度髪を撫でると、柴田はハッとして腕をほどいた。


「すみません……」

「いえ、心配をかけたのは僕の方だし」

「心配しました~!」


 へにゃりと眉を下げた柴田の表情を見て、柘植野は申し訳なさでいっぱいになった。思い切って、柴田の首に腕を回してハグをした。


「ごめんなさい」

「いえ……いいんです」


 柴田は身体を硬くして、ぎくしゃくした声で答えた。

 柘植野から抱きついてくることは少しも想像していなかったようだった。


「ん? 柘植野さんってタバコ吸うんですか?」

「あ、たまに吸うんですけど……。すみません……」


 柘植野はぱっと身体を離して謝った。柴田は真っ赤な顔で名残惜しい表情を浮かべて、顔をらした。


 廊下は声が響くので、自然に柴田の家の玄関に招かれる。


「えっと……あっ、タバコ、そうなんですね! どういうときに吸うんですか?」

「うーん……カッコつけた気分になりたいとき」

「カッコついてますよ。似合います」

「そうですかね。僕は優男やさおとこの部類だから」

「タバコってどうやって吸うんですか?」

「ああ。二十歳はたちになったら見せてあげます」

「あ、そうか」


 ずいぶん先の約束をしたな、と柘植野は思った。柴田が二十歳になるのは何ヶ月後なんだろう。


 そのとき、まだ柴田とパトロン契約を結んでいるか分からないし、柘植野がまだタバコを吸っているかも分からないし、どちらも引っ越さずに隣同士のままかも分からない。


 柘植野の収入に対してこのワンルームマンションは狭すぎる。

 ただ、積み上がった本と散らばった資料の整理が面倒で、学生時代の家から引っ越していないだけなのだ。


 今の関係には将来の約束が何もない。いつでも簡単に終わるものなんだ。柘植野はそう気づいて、寂しくなった。


「まあ、カッコつけにはぴったりでしょう。でも絶対におすすめしませんよ」

「確かに……。おれは吸わなくていいかな」


 素直な口ぶりに柘植野は笑った。


「じゃあ柘植野さんは、なんで吸い始めたんですか」

「昔の恋人が吸ってたから、真似してカッコつけたんです」

「あ、なるほど……」


 過去の彼氏との傷を舐め合うような交際を思い返すと、自然とその前の糀谷こうじやとの関係も思い出される。

 それなのにさらりと話せた自分に、柘植野は驚いた。


「本当にたまに吸うだけだし、人前では吸わないし、いつでもやめられるんですよ」


 焦って言ってから、柘植野は自分が柴田に嫌われたくないのだと気づく。

 柘植野は、自分の中に淡い気持ちが育っているのに気づいている。

 淡い気持ちはまだ、無視できる。無視しているうちは柴田の近くにいられる。


 柘植野は柴田との縁をつなげるために、編集会議の言いつけを伝えることにした。


「柴田さん、お話しそびれてたんですけど、僕は小説家なんです」

「小説家ー!? なんて筆名ですか!?」

「えっと……。望月眞舟もちづき まふねです」

「聞いたことあります!」


 柘植野は苦笑した。愛読者だったら嬉しかったけど。僕もまだまだだな。


「児童文学を書いてるから、10代の方と親しくしてよくない噂が立つとまずいんです。だからご飯パトロンのことは秘密にしてください」

「分かりました!」

「僕の筆名も、小説家であることも絶対秘密にしてください」

「もちろんです!」

「ありがとうございます……すみません、ティッシュもらっていいですか?」

「あ、はいはい」


 いよいよ鼻水が止まらなくなってきた。寒気もする。早く帰らないと。


「柘植野さん、風邪ですか?」

「……ちょっとだけね」

「あれだけ身体を冷やしたらそりゃ風邪引きますよ! 上がってください、おじや食べますか?」

「いや、うつしちゃうとまずいし、食欲なくて……」

「まあまあ、上がって……。おれは免疫最強だから大丈夫ですよ! にゅうめん食べられますか? ゼリー買ってきましょうか?」

「いや~~……。申し訳ない……」


 口では遠慮しながらも、柘植野はずるずると柴田の家に引っ張り込まれたのだった。

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