第29話 まな板の上の柘植野

 出版社の会議室には、柘植野の担当編集の谷口たにぐちに加え、編集長と法務担当者が顔をそろえた。


 柘植野はお誕生日席に座らされているが、別に上座というわけではない。これからこってり絞られるまな板の上の鯉というだけである。

 出されたペットボトルのお茶の味が少しも分からない。


「何やってるんですか望月もちづき先生」


 望月眞舟もちづき まふねというのが柘植野の筆名だ。

 編集長は顔をしかめてしゃべり、やれやれと額に手を当てた。ため息のあと口をゆがめ、きっちり塗られたベージュのリップがヨレた。


「浅井さんがどうするつもりか、聞くしかないじゃないですか」


 谷口は珍しく腕を組み、パンツスーツの脚も組んで厳しい表情をしている。

 優しく物腰穏やかな編集者の顔はあくまで通常モードだったんだ、と柘植野は怯えた。


「そうですね。僕から浅井に連絡するかも慎重に検討すべきかと思って、お集まりいただきました」


 柘植野は急いで意見を言った。人任せにしていたら余計に怒られそうだ。


「浅井氏の一存ですからねぇ~」


 法務のスタッフが口を挟んだ。中年の身体に合わない大きすぎるシャツを着て、ネクタイを胸ポケットに入れている。


「望月先生、アニメ化も映画化も決まってるんですよ。子どもたちだけじゃない、大人も巻き込んでブームに差し掛かったところなんです。ここでしゃんとしなくてどうするんですか?」

「すみません……」


 柘植野は縮こまって謝った。

 本当にその通りなのだ。国民的作品になりそうな作品を危機に晒しているのが自分自身の素行だなんて、笑えない。

 夢を売り、共に旅をしてもらう作家として無責任だった。罪悪感が胸を締め付ける。


 会議は「頭突きに関してはとりあえず謝罪するしかない」という結論に落ち着き、3人の文面チェックが入ったあとに柘植野はメッセージを送信した。


「返信待ちですね……」

「いや、言いづらいことですけど、望月先生が、その……」

「僕が奔放ほんぽうな性生活を送っていたことですか?」

「奔放な性生活を送っていたんですか!?」


 編集長は頭を抱えた。余計なことまで白状してしまった、と柘植野は後悔した。


「どんどんヤバいのが出てくるな……。先生は児童文学を書いてるんですよ!? 少しのスキャンダルでも、保護者が子どもに悪影響だと思ったら全部ポシャるんですよ!?」


 編集長は声を強めて言い、深いため息をついた。柘植野は焦って言い訳をする。


「いや、それはだいぶ前の話で、僕は『望月眞舟』として一度も顔出ししてないから、バレないと思うんですよ」

「なるほど……。谷口さん、望月先生の顔出しは今後も絶対NGで」

「はい」

「で、パトロンの話ですけど、何を考えているんですか?」


 編集長のボルテージが上がった。柘植野はすくみ上がった。


「10代ですよね? 変な契約はせめて20代以上と結んでくださいね。児童文学作家が10代のパトロンになってるって響きがもうアウトなんですよ」

「いや、10代かは知らないですけど」

「大学1年生なんでしょ?」

「そうですけど、年齢は知らないです」

「もういいでしょう編集長! 望月先生はさっさと柴田さんに連絡して聞いてください!」


 編集長と柘植野の言い合いにあきれた谷口が、ぴしゃりとケリをつけた。


「はい……。『柴田さんって何歳なんですか』と……。あ、浅井から返信が」

「浅井氏はなんと?」

「『彼氏にバラさないでくれたら許してあげる』だそうです」

「助かったぁ~~……」


 会議室が安堵あんどの空気に包まれた。


「あ、柴田さんは……19歳だそうです……」

「10代じゃないですか!」

「でも待ってください、毎晩おにぎりと豚しゃぶサラダを食べていた頃より健康的だと思いませんか? 僕の健康に投資すると思って……」

「それなら宅食でも頼んでください」


 編集長が冷たい声で却下した。


 柘植野は泣きたくなった。


 やっぱり僕は、柴田さんと結ばれかけた縁を自分から切らないといけない。

 そのとき柴田さんはどんな顔をするだろう? きっと無理をした笑顔で「大丈夫ですよ」って言うんだ。


 僕は柴田さんを傷つけてしまう。若者の気持ちを大切にしたかっただけなのに。


 自分の軽率さが悔しくて、柘植野はテーブルの下でこぶしを握った。


「でも……待ってください! 谷口さんも、食事シーンの描写が豊かになったって言ってくれたじゃないですか~! それは『ファンレター』を書き続けているからですよ!」


 柘植野は最後のわがままのつもりで食い下がった。


「……確かに」

「言えてる……。そういえば最近、急に食事シーン、そして交流シーンの描写がグッと鮮やかになってる……!」


 編集長と谷口は、拳を握り顔を見合わせた。


「あのぉ~、お2人とも?」


 のんびりしたナマケモノみたいな男が、ヒートアップする編集長と谷口に声をかけた。だが2人は聞いていない。


「谷口さん! これは引きこもり作家に人間との交流が生まれた千載一遇せんざいいちぐうの機会では!?」

「僕は引きこもりではないです」

「ええ! 望月先生にやっと人間関係が芽生えた……! 今までどれだけ感情表現の修正を入れてきたことか……!」

「僕に友達がいないみたいな言い方……」


 柘植野のツッコミも2人には届かない。


「法務的には問題ないんですね?」

「まあ、契約時に満18歳以上なのは間違いないようでしたら……」

「望月先生。いいでしょう。誰にも口外しないでください。妹さん以外に知られないように」

「はい……!」


 柘植野は編集長の手のひら返しにビビって返事をしたが、じわじわと喜びが湧いてきた。


 僕は柴田さんとの関係を手放さなくていいんだ。つながった縁を、断ち切らなくて済むんだ……!

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