第28話 「無事でよかった」のハグ

 温かいお湯に浸かって、柘植野は最悪の気分からは抜け出しつつあった。


 僕は旅を続けなければいけない。浅井に連絡して、取引をしてでも金を払ってでも口止めをする。

 浅井とまた顔を合わせることを思うとげんなりしたが、方針を立てられて少し安心した。


 それでも暗い気持ちはスッと消えてはいかない。柘植野の場合、ネガティブな感情と性欲が結びつきやすい。誰でもいいから埋めてほしくなる。ひどくされても構わない、なんて思ってしまう。

 柴田に抱いてほしかった。毛布もスウェットも柴田のにおいがした。男の体臭に包まれるだけで、くすぐられるように性欲が湧いてくる。


 髪を乾かされたときも、骨っぽい大きな手にときめいてしまった。柴田の顔が近くにあって、キスしてしまいたかった。


 そのうちに柴田もそわそわし出したから、柘植野は柴田の好意に気づいた。この雰囲気のままねだれば、抱いてもらえると思った。


 若者に手を出してはいけない、という理性だけで耐えている。


「柘植野さーん」

「はーい」


 ユニットバスの外から声をかけられて、心を読まれたかと思った。心臓が大きく跳ねた。


「あ、寝てるかと思って心配になっちゃって。ゆっくりしてください」


 柴田がくすくす笑う声で力が抜けて、余計に欲しくなる。

 一緒に寝るのはダメだろうか。キスをするだけ……。手を握るだけでも……。

 どの道を選んでも「それ以上」をねだってしまうのが分かっているから、もう1人になるのが一番だと思った。

 新しく借りたスウェットも柴田のにおいがして、くらくらする。もうダメだ。


「お湯お借りしましたー。お邪魔しちゃってすみません。廊下の血は触らないで、僕から管理人に連絡します。毛布とシーツは、乾燥機にかけてよければ夜までにお返しします。スウェットも乾燥機でいいですか?」


 用件だけ並べて早口で話した。


「あ、えっと、分かりました。乾燥機は助かります」

「じゃあ持っていきますね」


 柴田の返事を待たずに毛布を丸め、シーツをはがす。


「柘植野さん!」


 緊張した柴田の声で、何を言われるのかうっすら想像した。「なんですか?」と、わざとゆっくり向き直る。


「『無事でよかった』のハグ、してもいいですか!」


 柴田は燃えるように真っ赤な顔をしている。精一杯の様子がいじらしくて、とても断れなかった。

 柘植野が先に腰に手を回し、柴田がそろそろと背中を抱く。


「おれ……浅井さんに『喧嘩』って言われたとき柘植野さんが殴られたんだと思って……意識不明だったらどうしようかと思って……」


 柴田はだんだん泣き声になる。


「ごめんね! ごめんなさい。もう浅井は来ないから、大丈夫です」

「なら、よかった……。無事でよかったです」


 柴田はぎゅうっと柘植野を抱きしめた。

 柴田の身体のにおいが強く香って、柘植野の胸が高鳴る。もう少しだけ欲しくなって、肩に顔をうずめて甘えてみる。腰に回した手をきゅっと引き寄せる。


「柘植野さん……?」

「あ、ごめんなさい」


 柘植野はぱっと身体を離した。柴田は柘植野が「欲しがって」いたんだと今さら気づいた様子だった。真っ赤な顔で、目を潤ませて、物欲しそうな表情をしている。

 柘植野は見ていられなくて目を逸らした。10歳も下の人を欲しがってしまったのが恥ずかしくてたまらなかった。


「柘植野さん」


 柴田の呼びかけは「欲しがる」声だった。


「ごめんなさい」


 柘植野は急いで毛布とシーツをかき集めた。濡れたスウェットも抱えて玄関に向かうと、柴田は何も言わずにドアを開けて柘植野を通した。


◇◇◇


「あ〜〜断れなかった〜〜……」


 ゴウンゴウンと回る洗濯機の音を聞きながら、柘植野は頭を抱えた。

 若者が勇気を振り絞って「ハグしたい」と言ってくれたら、その勇気を否定したくないからハグしてしまう。叶えてあげたいと思う。そんなふうにいつも流されてしまっている!!


 しかも、しばらくぶりの人肌に「欲しく」なってしまったのは自分の方だ。青年の好奇心をいたずらに掻き立てて、なのに怖くて逃げてきてしまった。

 浅井に首筋を愛撫されていたから余計に身体が求めて……浅井許すまじ。


 編集者に連絡しなければ。「人気作家、流血沙汰の暴行事件!?」の見出しは避けなければならない。

 不意に「人気児童文学作家、10代男性と不純交友!?」の見出しが頭に浮かんだ。


「いや〜〜……ッ!! 不純ではない……!! ギリ不純ではないだろ……!!」


 編集者にご飯パトロンの話もすべきかもしれない。いや、すべきだろう。いい顔をされるわけがない。編集者のNGを無視してまで、ご飯パトロンを続けることはできない。


 僕と柴田さんの関係は、糸が繋がったと思った瞬間に切れてしまうような、儚いものだったのかもしれない。

 柘植野はうつむいて、床を見つめた。目に涙が浮かんできて、みるみるうちに何粒もこぼれた。


 柴田さんとの関係は、僕にとってこんなに大切だった。今さら気づいた。気づいたときには遅かった。

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