第27話 間接キス未遂

 柴田は、浅井が戻ってこないのを確認して、302号室のドアベルを鳴らした。反応はない。

 柴田の想像では、柘植野は頭を殴られて倒れている。意識がなくてドアベルにも気づかないんじゃないか。柴田はすでに泣き顔だった。


「柘植野さーん!! 起きてますかー!! 声出せますかー!!」


 ドアを叩いて呼びかけた。これでダメなら警察と救急車を呼ぼうと思う。


「ちょっと待ってね」


 かさついた、力のない声が玄関ドアの向こうから聞こえた。


「柘植野さん~……」


 柴田は安心して、全身の力が抜けた。涙がひと粒こぼれた。

 ドアが開いた。


「どうしたの?」

「いや、柘植野さんこそどうしたんですか!?」


 柘植野はインナーの半袖シャツとトランクスしか身につけていなかった。髪は濡れて首元に貼りつき、ぽたぽたとシャツを濡らしている。

 普通の風呂上がりではないことが一瞬で分かった。恐ろしいほど蒼白な顔色だったから。


「いや……柴田さんこそ、何かありましたか?」

「浅井さんが喧嘩したっていうから……」

「浅井と話したの?」


 柘植野のやつれた顔の、視線だけがギラっと光った。


「あ、ごめんなさい……ティッシュくれないかってたずねてきたから……」

「ああ……巻き込んでごめんなさいね。僕は怪我してないです」

「なんで……何があったんですか!? 髪も拭かないと……」


 突っ立っているだけの柘植野さんをしゃんとさせないと。

 柴田は柘植野の二の腕を掴んで、その冷たさにゾッとした。


「柘植野さん! 暖かくしてください! 部屋入りますよ」

「ダメなんです。仕事の資料があるから」

「それは……じゃあおれの家に来てください!!」


 柘植野は下着姿だが、柴田に連れられるままに303号室に上がった。

 柴田がバスタオルで柘植野の全身を拭くのを、他人事みたいなほうけた表情で受け入れている。

 ひと通りタオルで拭いて、柴田は柘植野をベッドに座らせた。


「おれのスウェットだけど着られます?」


 柴田が服を渡すと、柘植野は素直に着た。思考を放棄しているみたいだ。


「ほら、毛布かけて……ドライヤーかけますよ」


 柘植野を毛布にくるみ、ドライヤーをコンセントにつなぐ。うつろな目で黙っていた柘植野だったが、だんだん目に光が戻ってきた。


「あ……柴田さん、すみません、もう自分でやるんで……ていうか家に帰ってやるんで……!」

「ダメですよ。毛布に入っててください」

「……すみません」


 柴田は、柘植野が素直にドライヤーを受け入れたのが嬉しかった。さらさらな猫っ毛に手ぐしを入れて乾かす。イケメンな上に髪まで綺麗なんだなあ、と感心した。

 顔周りを乾かそうとして、右耳が目に入った。


「え!? 柘植野さん、耳たぶが——」

「そこはいいんです。自分でやります」


 張り詰めた声で言われて、ドライヤーを交代するしかなかった。柘植野の身に何が起きたら、耳たぶに血が滲むほどの傷がつくのか、柴田には分からなかった。


「お白湯持ってきますね。お湯も張ってるんで」

「あ、いや、お風呂は自分の家で入るんで……これ以上お世話になるわけには……」

「柘植野さん、家に帰したらこのまま寝そうだからダメです」


 本当は、哀しい目をしている柘植野を1人にするのが心配だった。

 おれは、出会って2ヶ月のこの人のことが、こんなに大切だなあ。


 抱きしめたい。そう思った。ぎゅっと胸が切なくなった。心臓がどきどきして、身体が熱くなった。


 柴田は戸惑った。人を抱きしめたいなんて、初めての気持ちだったから。


 ——あ、恋愛相談?


 浅井の声がフラッシュバックして、顔が熱くなる。


 これって、恋愛、なんだろうか。もしかして、好きな人を家に連れ込んでしまったんだろうか!?


 レンジがピーと鳴るまで突っ立って、背後で柘植野がドライヤーを使う音を聞いていた。

 マグカップのお湯に少し水を足して、ひと口飲んでみる。少し熱いけど、冷え切ったあの人にはちょうどいいだろう。

 それからマグカップに口をつけてしまったことに気づいた。


 こ、これでは2分の1の確率で間接キスになってしまう……!! 柘植野さんって左利きだっけ!? 持ち手を左に差し出したらその向きで飲んでくれるかな……?


 素知らぬ顔でマグカップを差し出すと、柘植野は「ありがとうございます」と受け取った。その声が少しやわらかくなっていたので、柴田は安心して泣きそうになった。


 柘植野はちびちびと白湯を飲む。間接キスは回避されたが、柴田は残念に思ってしまった。


 間接キスしたいのかな、おれ。もしかしてキスをしたいのかな。いやいや……。


 柴田は所在なく、立ったまま柘植野が白湯を飲むのを見守った。

 隣に座りたかった。でも座ったら、口実をつけて抱きしめたくなってしまう。


 ハッと思い出してエコバッグの食材の仕分けに戻った。それでも柘植野の存在を意識して、胸がドキドキしてしまう。


「お白湯ありがとう。お風呂を借りてもいいですか」

「あっ、どうぞ。タオルこれ使ってください。着替えはここ」


 すみません、と柘植野は恐縮した笑顔を見せた。ようやく笑顔を見られた。柴田はまた胸がぎゅっと切なくなった。

 柴田のスウェットは柘植野にはぶかぶかだった。華奢きゃしゃなんだな、と思って、下着姿を思い出す。線が細かったことだけぼんやりと思い出せる。


 抱きしめたらどんな感じなんだろう。人を抱きしめたらどんな感触なんだろう。

 柘植野さんの身体で知りたい、かもしれない……。


 ——年下には手ぇ出さないって……。

 ——柴田さんはそういうんじゃないから! 柴田さんをそういう目で見るなよ気持ち悪い……。


 柘植野さんって、年下には手を出さないポリシーなんだな……。浅井との会話を思い出して、柴田はガックリとしょげた。恋愛対象と見られていないのはすでに確定している。


 ……ほんとに恋愛相談した方がいいな。


 浅井のことはまったく信用していない。だが、今のところ柘植野と共通の知り合いは、しほりと浅井だけだ。しほりの連絡先は知らない。

 浅井から聞き出せることだけ聞き出せばいい、と思って連絡をした。


『柴田です。鼻血大丈夫でしたか?』

『浅井さんって、柘植野さんとどういうご関係なんですか?』

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