第23話 定食屋の角煮

 4月になり、柴田が大学に入学した。さりげなく柘植野が時間割を聞いたところ、月曜日から金曜日までそこそこ授業で埋まっていた。

 サークルは、ジョギングの会とピアノサークルに入ったそうだ。


「小学生の頃にピアノを習ってて、もう一回やってみたくなったんです!」


 柴田は、大学生活が楽しみでたまらない様子で笑った。


 大学の課題で忙しい中でも、柴田は柘植野に夕飯を作ってくれる。


「どうせ自炊はするから、1人分より2人分の方がいろんな食材を使えて楽なんですよ。元々5人分作ってたわけだし」


 そう言ってニカッと笑うから、柘植野は柴田の判断に任せることにした。


 スーパーの買い出しは柘植野の担当になった。「協力させてください」と頼み込む柘植野に、柴田が折れた形だ。


 そして4月の下旬、大学にも慣れてきた頃に、柴田はアルバイトを始めた。アルバイト先は、柘植野が気に入っている近所の定食屋だ。


 柘植野は学生の頃からこの店に通い、もう10年目。月に1度顔を出すくらいなのだが、すっかり常連扱いである。

 美麗な容姿から店員たちに「王子」とあだ名を付けられていることを、柘植野は知らない。


 最初に柴田と一緒に食べに行ったのは3月末だった。柘植野は焼き魚定食を、柴田は刺身定食を注文した。

 「王子が元気な男の子を連れてきた」と厨房がざわついたのも、柘植野は知らない。


 先に刺身定食が運ばれてきた。


「どうぞ柴田さん、お先に召し上がれ」

「いやいや~。1切れずつあげますよ」

「そんなにもらったらなくなっちゃいますよ!」


 結局柘植野はマグロの刺身をもらい、柴田に焼き魚を少しあげた。

 妹以外と食べ物交換をするなんて相当久しぶりだ。もしかしたら10年前くらい——。

 柘植野は慌てて記憶にフタをした。


 食べ終わると柴田は目を輝かせて柘植野をちょいちょいと呼んだ。そして耳元で、「おれ、ここで働きたいです」と言った。

 確かに柴田が天丼屋で言っていたように、オバチャンが元気よく働いている店だ。


 すぐに店内を見回すと、壁にアルバイト募集のビラが貼られていた。

 喜びで顔を見合わせた2人だったが、ビラには「学生さんお断り」の一文が。2人は肩を落とした。


「でも、無理かもしれないけど応募してみます!」


 柴田は、こころざしが燃える眼差しでやる気を見せた。


 柘植野は柴田のこういうまっすぐなところをよく思っているから、推薦状を渡して柴田を面接に送り出した。

 結果、柴田は定食屋「海野屋」の期待の新人となり、ずいぶん活躍しているらしい。


 柴田のアルバイトの日は夕飯はなし。柴田の料理を食べる機会が減って、柘植野は少し寂しくなった。


 でも、これくらいがちょうどいい距離感なんだ。今までは柴田さんに甘えて、踏み込みすぎていたんじゃないかな。


 柴田が新しい世界に飛び込んで遠ざかってしまったような感覚が胸を締め付けるのに、柘植野は気づかないフリをしている。


『海野屋行きませんか?』


 粕川かすがわから連絡が来たのは4月の下旬。

 逃げるように粕川の家を出てから1ヶ月以上連絡もしていなかった。柘植野は罪悪感を覚えて、『いいよ』と連絡した。


 粕川は暇をしているらしく、その日のうちに海野屋に行くことになった。


 少し列に並んで店に入れた。店員の「いらっしゃいませー」の声の中に若い男の声が交ざっていて、しまった今日は柴田さんのシフトの日だったと思い出す。


「あらいらっしゃい王子……じゃなくて柘植野くん」

「……? こんばんは」

「柴田くーん! 王……じゃなくて柘植野くん来てくれたよー!」


 ホールのオバチャンが店内に響き渡る声で報告し、客の視線が柘植野に集まる。肩身を狭くしていると、「ありがとうございますー!」と柘植野の声だけが聞こえた。調理中で忙しいんだろう。


「先輩、知り合いいるんですか?」

「まあ、そうなんだよね」


 詳しくは説明しなかった。柘植野が角煮定食を、粕川がハンバーグ定食を注文する。

 粕川との会話はあまり弾まない。研究室の話が出ると柘植野はするりと話題を逸らしてしまうし、2人の間に研究室以外の共通点はない。


「先輩、どれくらい稼いでるんですか」


 ストレートな質問に、柘植野は飲んでいた水でむせた。


「たぶん粕川くんが思ってるほどじゃないよ」

「そうなんですか~? おれもひと山当てるしかないかなって思ってるんですけど」

「僕は転職の相談には向いてないよ。会社勤めをしたことがないんだから」

「カッコいいセリフですよね」


 柘植野が「やめてよ」と言いかけたところで、「ハンバーグ定食でーす!」と明るい声が割り込んだ。

 柴田だった。厨房担当のはずだが、特別にホールに出されたんだろう。


「どうぞ、先に食べて」

「あ、じゃあ遠慮なく。うわ、ここの定食うまいっすよね~」

「はい、角煮定食でーす!」


 また柴田が運んできた。誇らしげな表情を隠せていない。人生初のアルバイトが嬉しくて仕方ないんだろう。

 柘植野は素直に「かわいいな」と思った。


 角煮はすごくおいしい。でも柴田だったらもう少し甘く味付けするんじゃないかと思ったら、海野屋の味に集中できなかった。


 そっか。僕はおいしいご飯が好きなんじゃなくて、柴田さんのご飯が好きなんだ。

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