第19話 夜のコンビニ
しほりはいつも豪快に飲むから、
文渡は、ぐでぐでになったしほりをマンション入り口まで送ってから、電車で最寄駅まで帰ってきた。
駅前のコンビニの看板は
何か夜食を買って帰ろうかな。辛い酒を飲んだから何か甘いもの? それとも思い切りジャンキーにカップラーメン?
柘植野は明かりに惹きつけられる羽虫のように、ふらふらとコンビニに吸い寄せられた。
「あれ、柘植野先輩」
コンビニから出てきた、線の細い猫背の男に声をかけられた。
「……
「お久しぶりですー! 先輩、まだこの辺に住んでたんですか!」
大学院の研究室の後輩だった。1年後輩で、何かと柘植野に話しかけたがる男。
要するに、自分に好意があるんだろうと当時は思っていた。
「まあ……。引っ越してないんだよね」
柘植野は内心うんざりした。
粕川はいかにもコンビニ着のスウェットだ。苦手な男が近くに住んでいたとは……。
「せっかくなんでうちで飲みません? おれ最近引っ越してきたんですよー。就職したけどブラックで嫌になって辞めて、今は安アパート暮らしのコンビニ店員です」
粕川はぺらぺらしゃべりながら、今出てきたコンビニを指で示した。
柘植野は心底うんざりした。よく行くコンビニで粕川に遭遇するんじゃ、おちおち買い物もできない……。
柘植野は薄笑いを顔に貼り付けている。粕川は少しずつ距離を詰めてきた。
男の身体が近づいてくる。驚いたことに嫌ではなかった。
それよりも、薄い身体つきや長い指、柘植野に好意を向ける目に、柘植野の胸は高鳴った。
そして粕川が柘植野のパーソナルスペースに踏み込んだ瞬間、柘植野の理性は甘くとろけた。
セックスできるかもしれない。
改めて粕川の身体を眺める。
服を脱がせたらどんなだろう。骨ばった細い指で触られたら……? 体温の低そうな身体と抱き合ったら人肌の心地がするだろうか。粕川の声で耳元で名前を呼ばれたら……?
長い禁欲期間で限界の柘植野は、一瞬のうちにめくるめく妄想を繰り広げた。
「先輩、飲みましょ」
「……そうだね。少しだけ」
柘植野はビールとつまみを買って、外で待っている粕川と合流した。
今日は夕食を外で食べたから、柴田さんに連絡しなくても大丈夫……。
柴田のことを考えると、胸がチクっと痛む。柘植野はその理由を深く考えず、すぐに忘れてしまった。
「先輩、大ヒットじゃないですか。アニメ化も——」
「外で仕事の話はやめてね」
「あ、すみません。おれがフラフラしてる間にすごいなあと思ってたんですよ」
駅前のコンビニから粕川の家まで歩く。粕川がどうでもいいことをしゃべって、柘植野は雑なあいづちを打つ。
柘植野は会話どころではない。粕川の身体が近い。粕川はわざと柘植野に身体を寄せて歩いている。
ときどき低くなる声、「先輩」と甘えるような口ぶり、そんなことにいちいちドキドキしている。柘植野はもう、止まれないほど期待している。
1歳年下の男。若者扱いしなくていい男。その胸に飛び込むことも、キスすることも、肌を合わせることも、許されている。
——許されているって、誰に?
「ここですよ、おれのボロアパート」
顔をのぞき込むように言われて、柘植野の頬が火照る。
「……え? ここ?」
粕川が指差したのは、柘植野と柴田のマンションのすぐ隣のアパートだった。
——マンション内セフレ計画?
すぐに却下したくだらない妄想がふたたび浮上してきて、柘植野はごくりとつばを飲んだ。
「マンション内」ではないが、すぐ隣のアパートに転がり込めるとしたら……?
「ここですよ。ボロすぎてビビりました?」
「いや、全然」
隣のマンションだとは言わないでおいたが、声がうわずった。
「まあまあ、上がってください」
上がったら、最後まで行ってしまう。自分はそれほどに男の身体を求めている。
でも、いいか。
すでにアルコールの入った柘植野は、雑な判断を下した。
「お邪魔します」
粕川の家には引っ越しの段ボールが積まれている。そういえば柴田さんは
なんで柴田さんを思い出すと、罪悪感が湧いてくるんだろう……。
座布団を出されて、隣り合って座る。背の高い粕川は、柘植野の顔をのぞくように話す。
目が合うたびに、背中を電流が走る。
自分はもうすぐこの男に抱かれるんだと思うと、身体が期待に震える。
ぽわぽわした甘い誘惑が囁く、「したい」と言ってしまいなさい、と。
粕川がさりげなく座り直して、柘植野のカーディガンと粕川のスウェットの袖が触れ合った。
もう、2人の肌は、服を隔ててすぐそこにある。2人とも期待している。
床についた手の小指を1センチ動かせば、粕川の小指に触れる。
「それにしてもおれ、どうしたもんですかね~」
粕川はなんでもない口ぶりで話を切り出す。柘植野から求められるのを待っているのだろう。
「何が?」
柘植野は恥ずかしさでくらくらした。ねだらないと、してもらえない。
身体はこんなに期待しているのに。
「先輩は大ヒット作家だし、
「あのひとがどうしたの」
自分でも恐ろしいほど平坦な声が出た。糀谷は2人の研究室の助教だった研究者だ。
「ん? 筆頭論文出したんですよ。すごいやつ。次は古巣の准教授になるんじゃないかって噂で」
「そう……」
「あ、糀谷さんのこと苦手でしたっけ? すいません……」
「いや、いいんだけど」
今度は吐き捨てるように言ってしまった。浮かれた気持ちはすっかり
「ごめん、帰るね。また話そう」
返事を待たずに柘植野は立ち上がり、逃げるように家を出た。
外は霧雨が降っていた。最初は優しく降り注ぐようで、気づかないうちに土砂降りに変わる。糀谷もそんな男だった。
このまま家に帰りたくない。泣いてしまうから。柘植野は傘も持たずに、駅の方へ歩き出した。
僕が入学したときあのひとは助教で、博士号を持っているというだけで輝いて見えた。
今でも輝いて見える。その輝きの裏に、
柘植野は博士課程まで進学したが、作家業が忙しくなって中退した。
判断は正しかったと思う。でも、博士号にたどり着けなかった自分を恥ずかしく思ってしまう。
コンビニの明かりが見えた。
何か甘いものを買って帰ろう。泣かずに済むような、優しい甘さの何かを。
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