第17話 秘伝のタレの天丼

「うっわぁ~! いいにおい~!」


 天丼がテーブルに置かれる前から素早く割り箸を構えたのは、しほりだった。

 文渡あやとは「ちょっとお行儀が悪いな」と思ったが何も言わない。お互いいいとしの大人なのだから。


「柴田くん、食べな食べな! 私写真撮るから!」


 しほりはスマホの存在を思い出し、カメラを構えた。


「え、お先にいただくのは……」

「揚げ物はサクサクが命じゃん!」

「……お先にいただきます!」


 柴田は手を合わせて小さく「いただきます」とつぶやき、割り箸を割った。文渡も同じようにする。


 しほりさんは柴田さんの人柄を見に来たくせに、「マリに似てる」と通じ合った瞬間からギラギラした雰囲気が消えた。

 すっかり毒気を抜かれて、道中もずっと柴田さんとしゃべっていた。

 あんな肉食獣のような目で、柴田さんの人柄をチェックする気だったのに。柴田さんの素直な性格にほだされたんだろうな。


 文渡は少し疎外感そがいかんを覚えて、「最初は僕が仲よくなったのに」と子どもっぽく不満に思った。


 いや、仲よくなっていたのか?

 柴田さんとの関係に「パトロン」という名前を付けた。契約を交わした。お金を渡した。

 僕の方から予防線をいくつも引いていた。


 しほりさんにはそういうしがらみがないから、本当の意味で仲よくなれるのは当たり前。

 文渡はうっすら寂しくなった。ごまかすように、名店の海老天にかぶりつく。


「うわ!? 海老がデカい!?」

「海老デカいよね~。衣でごまかしてない」

「衣もめっちゃうまくないですか!? こっから厨房のぞけないかな……。名店の秘密を盗みたい……」

「名店の秘密はみんな盗みたいよ~」


 柴田は座ったまま背伸びして厨房をのぞこうとする。


「あ~衣のとこだけ見えない……」

「柴田さんは揚げ物も得意じゃないんですか?」


 文渡がたずねた。グラタンもムニエルもサックサクに仕上げてくる柴田なら、揚げ物も完璧な火加減で綺麗きれいに揚げそうなものだ。


「ものによりますね。フライパンで揚げられるものはそこそこですけど。天丼なんて具材そろえるのも大変ですし。天ぷらって店で食べた方がおいしい派なんですよね、おれ」

「あー確かに。家で天ぷらはやらんわ」


 しほりは方言のアクセントでしゃべりはじめた。すっかり柴田に気を許している。


 散々怪しまれたのはなんだったんだ、と柘植野は思った。

 でも、しほりから見ても柴田がいい奴なら、安心してこの関係を続けられる。


「秘伝のタレを手に入れたい……」

「盗もうとしてないで食べな~」

「このタレめっちゃおいしくないですか?」

「おいしい」

「それはそう」


 甘いのだ。甘いが、角のないまろやかな甘さ。しょっぱさの角も取れて、味のノイズにならない名脇役の味。


「柴田くん、ハモすごいよ~! 食べてみな」

「アツッ! うわ、いい食感~!!」


 あぶらの乗ったハモは、すぐにほぐれるやわらかさ。白身魚の香りと天ぷらの衣の香りが口の中から鼻までを一気に満たす。


「ナス天の色、綺麗すぎません? おれここまで綺麗に揚げられるかな……」

「ほんとだ~。火を通してここまで鮮やかってすごいわ~。私には無理」

「絶対熱いけど今すぐ食べたいな」

「食べちゃえ食べちゃえ」

「大丈夫ですか? 絶対熱いですよ」


 文渡のつぶやきを、しほりは無責任に後押しし、柴田は心配する。


「ンッ……!! ……アツッ!!」


 歯が衣を割ってとろけたナスにたどり着いた瞬間、ジューシーで熱々の汁が口に流れ込んだ。


「柘植野さんって、こんなにおいしそうに食べるんですね!」


 ニカッと笑って柴田が言う。

 文渡の頭は熱々のナスのことでいっぱいなのに、さらに恥ずかしいことを言われて、頬が熱くなる。


「お兄ちゃんはほんとにおいしそうに食べるよね……。お兄ちゃんが実家を出てから、お母さんが『料理の作りがいがなくなった』って嘆いてたもん」

「え? そうだったの?」


 文渡は嬉しく思った。

 柴田と出会ってから、母の料理には大した褒め言葉もかけてこなかったと反省していたのだ。

 でも、食べっぷりで喜んでもらえていたなら、よかった。


「ここまで嬉しそうに食べてくれる人はなかなかいませんよ~」

「ていうか、きみたちは一緒にご飯を食べてるんじゃないの?」

「いや、それは踏み込みすぎかなって……」

「なるほどね」


 しほりは文渡の心情を察した顔で、話を切り上げた。


「私も食べよ……。……アッツいねこれ!!」

「めちゃくちゃうまいです〜! トロトロになってる。衣サクサク中はトロトロってずるすぎる」

「確かに。ずるい。天然記念物として保護すべき」

「天然記念物になったら食べられないですよ~」

「それは困るな~」


 柴田としほりの会話を聞いていると、やっぱり文渡は少し寂しくなる。


 自分で線を引いているのに。それが正しいと、10年間苦しんだ自分が一番——ここで文渡は心臓をつかまれたように苦しくなった——分かっているのに。


「おれもこういうオバチャンが元気に働いてるような店でバイトしたいです。探してみようかな」


 柴田が急に真剣な顔をして言う。


「んー、大学入ってから決めたら? 世間で言われるより忙しいよ、大学は」

「確かに。そうします」


 柴田は素直にうなずいた。でも、いつになくこころざしめた表情をしていた。


「僕に心当たりがあるから、アルバイトできそうになったら言ってください」

「ほんとですか!!」


 柴田は目を輝かせて文渡を見た。大型犬だったら尻尾を振って飛びついてきそうな勢いだ。


「アルバイトを募集してるか、今度見に行きましょう」

「ありがとうございます!」


 柴田さんに、ご飯パトロン以外の生きがいが見つかったらいいな。


 そう思う反面、自分と柴田さんだけの関係から飛び出していってしまうのが寂しい、でもなくて、不安、でもなくて……怖い。


 僕は、自分で思っているより柴田さんに依存しているのかもしれない。

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