第16話 アグレッシブな方向音痴

『お隣さんとはうまくやれると思う』

『根拠は?』

『マリに似てる。会えば分かる』

『マリ!?犬!?』

『僕たちの愛しいおばあちゃん犬に似てるから大丈夫』

『そんな理由、絶対信じないからね!』


◇◇◇


 ドアベルが鳴ってドアを開けると、柘植野の予想通り柴田が立っていた。


「あの~、この格好でいいですかね?」

「いいですよ。ドレスコードはないし」

「変じゃないですか?」

「全然変じゃないですよ」


 柴田は、ロゴ入りのスウェットにデニムにブルゾンというよくある格好だった。


 柘植野が柴田の外出着を見るのは初めてだ。スーパーに行ったときは、2人ともワンマイルウェアのような格好だった。

 こんなにほぼ毎晩顔を合わせているのに、部屋着でしか会ったことがなかったのだ。柘植野は可笑しくなった。


 柘植野は、ハリのあるワイシャツにスモークグリーンのカーディガンを着ている。

 一度部屋に戻って、緑がかった光沢のあるスプリングコートを羽織った。

 足元は、柴田のカジュアルに合わせて白のスニーカーにする。


「え~柘植野さんめっちゃおしゃれしてるじゃないですか、ちゃんとしてるじゃないですか、おれ本当にこれで大丈夫ですか?」

「大丈夫ですよ。天丼だからって三つ星レストランとか期待しないでね。いたって素朴な店へ行きましょう」

「素朴なら、いいですけどぉ~……」


 柴田のへにゃへにゃな声に、笑い出しそうになった。


 マンションの階段を下りると、夕方なのにずいぶん明るい。気づかないうちに、春だった。


◇◇◇


 地下鉄を一回乗り換えて目的の駅に降りるまでが大変だった。


 柴田は方向音痴だ。しかもアグレッシブな方向音痴だ。

 柘植野が「こっちですよ」と言うより先に、真反対に突き進んでいる。


 柘植野はいちいち走って追いかけて柴田を捕まえ、正しいルートに連れ戻した。

 それでも曲がり角のたびに、柴田は逆方向に曲がってしまう。


「すみません……。方向音痴の自覚はあるんですけど……」

「いや……。初めての駅だし、しょうがないですよ」


 柘植野はフォローしたが、追いかけ回して疲れているのは事実だ。


つかんでていいですか」

「あ、すみません」


 柴田の手と柘植野の手は空中ですれ違った。


「ん?」

「ん?」


 柘植野は柴田のリュックをつかんだ。


 柴田は柘植野と手をつなぐように差し出して、きょとんとした顔をしている。

 それから柘植野の意図に気づいて、赤い顔で手を引っ込めた。


「すみません……」

「いやいや」

「手はつながないですよね、普通……」

「いや、うん、でもそういうこともあると思いますよ……」


 柘植野は無理やりなフォローをしたが、気まずい空気が流れた。


 柘植野が柴田を捕まえてからはスムーズに移動が進んだ。

 5分ほど遅刻しそうだと、しほりに連絡した。


 柘植野は思った。柴田さんは方向音痴だから、誰とでも手をつないで連れて行ってもらうんだろうか?

 ガタイのいい青年が手を引かれて歩いているのを想像して、フフッと笑ってしまった。


「どうしました?」

「フフ……なんでもないです、すみません」


 かわいいなあ。

 僕はそろそろ、自分が柴田さんを「かわいい」と思っているのを認めないといけないようだ。


 駅出口から地上に出ると、スマホを眺めていた女性が顔を上げた。薄いニットのフレアワンピースに丸襟のジャケットを羽織っている。

 女性は軽く笑顔を作って手を上げた。


「あ、お待たせ」

「はじめまして! すみません! おれが方向音痴なせいで遅れました! 本当にすみません!」


 しほりは口に手を当ててくすくす笑った。

 だが柘植野だけが気づいている。目が笑っていない。


 しほりはギラギラと光る瞳で、柴田の本性を暴いてやろうと一挙手一投足いっきょしゅいっとうそくを見張っている。いつでも飛びかかれるように爪を研ぐ獣のようだ。


「はじめまして。お気になさらず。文渡あやとの妹のしほりしおりです。よろしくね」

「アッ、柴田です、柴田すぐるです」

「よろしく、柴田くん」


 しほりの100パーセント好印象の微笑ほほえみに、文渡はドン引きした。

 腹にギラギラしたたくらみを隠したまま、完璧な社交ができるなんて……。


 妹が、思っていたより怖い。普通に怖い。


 狙いをつけられた柴田は何も気づいていない。


「よろしくお願いします! すごい……きょうだい揃ってお綺麗きれいですね……」


 柴田はしほりと文渡の顔を交互に見て、素直な感想を口にした。

 文渡は心臓が飛び出るかと思った。


「容姿のことは、褒め言葉であってもあまり言わない方がいいですよ」


 文渡はやんわり注意した。

 文渡自身は、外見について何か言われても気にならない。


 だが、しほりは容姿を褒められるのを嫌うのだ。美人ならではの苦労というのはいくらでもあるんだろう。


 柴田がいきなりしほりの怒りゲージを溜めそうになり、文渡は内心ビクビクしながらフォローを入れた。


「そうなんですね!? ごめんなさい……」


 柴田はすぐに謝罪した。しょげた顔をしている。


 ——マリに似てるでしょ。

 ——マリに似てる。分かる。


 柘植野きょうだいは顔を見合わせ、目線で通じ合った。


「いえいえ、覚えておいたらいいくらいのことですから、そんなに気にしないで。しほりさん、店分かる?」

「うん。こっち」

「ありがとう」


 マップを見るしほりに、柴田と、柴田のリュックひもをしっかり捕まえた文渡が続いた。


 柴田のリュック紐をつかむ感触で、何かを思い出せそうで思い出せない。

 もっとずっと前にも、同じように誰かのリュックを捕まえて歩いたことがあった気がする——。

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