第8話 柘植野の苦い過去

 ぐう、と柘植野のお腹が鳴った。同時に、スマホに柴田からメッセージが届いた。


『今日はタラのムニエルとブロッコリーのポタージュです』

『しばらくブロッコリーが続きますけど大丈夫ですか?』


 ふふ、と笑って『大丈夫です』と返す。


「あーあ。踏み込まないはずだったのに」


 柘植野のモットー、「若者との適切な距離感」はどこへやら。お隣の青年は柘植野の専属シェフになってしまった。


 あー……。柴田さんは笑顔がずるいよなあ。

 天国のマリが尻尾を振って飛びついてくるみたいなスピードで、柴田との人間関係が急発進した。


 それに……こんなにお互いのことを認識しちゃったから、絶対絶対柴田さんにオナバレできない状況になっちゃったなあ……。

 性欲の強い柘植野にとっては大問題だ。うーんと頭を抱えた。


 今後の性生活について真剣に考えなければならない。

 4月に入れば柴田さんは大学に行くだろうから、さりげなく時間割を聞き出して不在の時間にいたせばよろしい。

 問題はまだ3月中旬なこと。やっぱり柴田さんは私立大学の学生で、早めに越してきたんだろう。


 柴田さんは出かけていることが多いが、いつ帰ってくるのか分からない。柘植野が盛り上がっているところで隣人が帰ってきたらどうしようもない。


 もう1週間以上禁欲しているのに、新学期まであと2週間もある。

 柘植野はエッチな広告が目に入るだけでそわそわしてしまうくらいに限界だ。


「セフレを作るか……?」


 浅井は新しい彼氏とイチャイチャしているだろう。その間に、もう少し性格がマシでプレイを強要しないセフレに乗り換えたい。


「いや、うーん、ご飯しばりが……」


 夕ご飯がいらないときは柴田さんに連絡する約束をしてしまった。頻繁ひんぱんに夜に不在にすると怪しまれるかもしれない。


「まさか……『マンション内セフレ計画』!?」


 急に降りてきたアイデアはバカバカしい。しかし、セフレを作るタイプの人間なら一度は考えるに違いない。


 たかだかセックスのために雨に濡れたくない。

 冬風に吹かれたくない。

 熱帯夜に外に出たくない。

 でもセックスはしたい。

 そんなあなたに究極のソリューション、それがマンション内セフレ計画である。


「うーん……。見つけるのが無理でしょ」


 柘植野はすぐに妄想を却下きゃっかした。マッチングアプリを使えば近所のセフレ募集中の男性を見つけられるが、同じマンションとなると難しい。

 柘植野が住んでいるのは、都会らしく最低限の挨拶あいさつもしないような、人付き合い皆無かいむのマンションだ。


 柘植野はため息をついた。夜中の外出はデートだなんて、柴田さんにウソをつくのも嫌だし……。


「いや。恋人ならいいのでは?」


 柘植野は、ぼんやり眺めていたアプリ内の広告に目を留めた。「私たち、マッチングアプリで出会いました」と笑顔で手をつなぐカップルの広告だ。


「恋人……か」


 浅井とのズブズブな関係を断ち切って、誰かときちんと「恋人」という人間関係を続けてみたいと柘植野は思った。

 もう28歳だ。僕は十分大人になった。今の自分なら、できる気がする。


 思い切ってマッチングアプリをダウンロードした。新しい自分へ一歩踏み出したようで、柘植野は晴れやかな気分になった。


 簡単に自己紹介を入力して、カメラロールからプロフィール写真を探した。

 自分の写真を選んで一覧で見たとき、柘植野は胸をかれて目を見開いた。瞳が哀しみで揺れた。

 そして柘植野は、入力を済ませたマッチングアプリをスマホから削除してしまった。


 柘植野の写真は、どれも右耳を隠して左耳に髪をかけた、アンバランスな姿を写していたから。

 柘植野は右のピアスホールに手をやり、ふさがって残ったしこりを触った。やりようのない悲しみを感じた。


 ——あのとき僕は若かった。


 僕はまだ右耳を隠しているくせに、誰かと恋人になんてなれるはずがないんだ。「十分大人になった」なんて、よくそんなことが言えたものだな。

 柘植野は自嘲した。


 スマホに通知が届いた。柴田からのメッセージだった。


『お待たせしました!』

『汁物があるんで、おれの家で食べませんか?食パンでよければあります』


 柘植野は目を伏せた。


「間違えちゃったな」


 柴田さんが喜んでくれる道を選んでいたら、柴田さんにどんどん踏み込んでしまった。

 柘植野は家を出て、柴田の家のドアベルを鳴らす。柴田が顔を出す。


「作ってくれてありがとうございます。でも自分の家で食べたいかな」

「あ……そうですよね! すみません!」


 柴田はきょをつかれた顔をした。


 それから柴田は恥ずかしくてたまらないように、バタバタと台所へ引っ込んだ。背後から見える耳が赤くなっていた。


 柘植野はタラのムニエルとブロッコリーのポタージュを受け取って、自室に戻った。

 1人の部屋のテーブルに並べる。パンはないので、冷凍したご飯をレンジにかける。

 2人で食べようと誘われたからこそ、1人の食卓はわびしかった。


 ——こうやって小さな拒絶を繰り返して、そのたびに少しずつ柴田さんを傷つける。


 柘植野は、手を貸そうとしたばかりに、踏み込みすぎて関係がぐしゃぐしゃに絡まってしまった人たちを思い出す。


 そうだ。僕はいつも間違える。


 それでも柘植野は今、あたたかいご飯を作ってくれる青年にあたたかい言葉を贈ることを、やめようとは思えなかった。

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