第2話 引っ越しの挨拶
「レジ袋なしお箸なしで大丈夫ですかー?」
「はい、ありがとうございます」
コンビニの夕方のレジ担当者は、柘植野を「おにぎりと豚しゃぶサラダの人」と認識しているだろう。
同じものを食べ続けても気にならないタイプなのだ。
柘植野は、夕食は毎日おにぎりと豚しゃぶサラダを買う。おにぎりの具もだいたい昆布と決めている。
気が向いたら別のサラダにしてみる。そんな
階段で3階まで上がって、玄関を開けた。柘植野は「惰性」という言葉からふと、浅井を連想した。
浅井とのセフレ関係も、惰性で続いている。
浅井は大学の頃からの知人だ。あれでも
柘植野は、浅井がフリーのときは関係を持って、浅井に恋人ができると距離を置く。
そのうち浅井が「別れた」と言って戻ってくるから、柘植野はまた浅井と関係を持つ。
浅井は柘植野を「ビッチ」と呼ぶ。確かに柘植野には、毎晩違う男に抱かれるような時期があった。
だが、柘植野がほかの男に手を出さなくなって3年が経つ。新しい男が怖くなってしまったのだ。
柘植野の小柄で薄い身体、白い肌、やわらかい声、繊細で人形のような顔立ち。華奢な容姿は男たちの
そのせいで柘植野は、散々望まないプレイに付き合わされてきた。
新しい男を作っても、プレイを強要されるかもしれない。
——浅井しか、信用できない……。
もう28歳になった。恋人はずっといない。でも身体は男の熱を求めてしまう。
数日前の交わりを思い出すと、柘植野の頬がうっすら染まる。
「ハァ……」
また浅井との関係に戻っていく自分を想像して、柘植野は自己嫌悪のため息をついた。
そんな夜でもご飯はおいしい。ローテーブルに豚しゃぶサラダとおにぎりを並べ、箸と水を取ってきた。
柘植野は、固定のメニューを何度食べても新鮮においしいと思う。
毎日違う料理を食べたい人の気持ちは想像しにくい。ましてや毎食自炊だなんてとても考えられない。
柘植野はコンビニのある時代に生まれたことに心から感謝して、サラダに手を伸ばした。
そのとき、インターホンが鳴った。
最初、柘植野はインターホンの音を無視した。今日荷物が届く予定はない。何かの勧誘だと思った。
だが、柘植野のマンションはオートロックだ。マンション入り口のチャイムと、個々の部屋のドアベルは音が違う。
「あれ?」
鳴ったのはこの302号室のドアベルだった。謎の客人は、マンション入り口ではなく、玄関前にいる。
「管理人さんかな……?」
柘植野は急いで立ち上がり、玄関に向かった。
ドアチェーンをかけて玄関を開けると、背の高い青年が菓子折りを持って立っていた。
「あ! 夜分に失礼します。303号室に引っ越してきた柴田と申します。ご
青年は、明るい笑顔でハキハキ話した。
数駅離れたところに私立大学があるから、そこの新入生だろう。柘植野は納得してドアチェーンを外した。
柴田は180センチ近くありそうな長身で、骨太な骨格の上に筋肉のハリが見て取れる。短く刈った髪はツンツンと立ち上がり、スポーツマンっぽい。
「ご丁寧にありがとうございます。僕は
「はい! よろしくお願いします。ご挨拶できて嬉しいです」
柴田はニコニコと菓子折りを手渡した。
「新居で何か困ったことがあったら言ってください。日中も家にいることが多いから」
「そうなんですね! ありがとうございます。とても安心です」
柴田はほっとした笑顔を見せた。余計なことを言った、と柘植野は後悔した。
柘植野は、若者のよき導き手でありたいと思っている。
年長者としての距離感を保ちつつ、必要なときには手を差しのべる。そんな人間でありたい。
——あのひとと同じには、なりたくない。
だが、柘植野は結局若者に懐かれてしまう。美麗な容姿もあってか、好意を寄せられることもしばしば。
毎度毎度、距離を保つのに失敗しているということなのだが、認めたくはない。
それにしても、お隣さんの困りごとに手を貸すのは、物理的に距離が近すぎないか!?
若者と適切な距離を保つのが大前提だったのに。柴田さんの雰囲気につられて「困ったことがあったら」なんて言ってしまったな。
柴田の表情は、薄暗い廊下でも輝くほど明るい。
大きな口でニカッと笑うところが、昔祖父母が飼っていたレトリバーに似ていると思った。ついつい面倒を見たくなってしまう。
——かわいいなあ。
「わーッ!?」
10歳離れた人を、「かわいい」と思ってしまった!? 柘植野は思わず大声を出して、自分の思考を否定した。
「柘植野さん!? どうしました!?」
「なんでもない! なんでもないです! ごめんなさい!」
「そうですか……? でも、親切な方がお隣さんで助かりました!」
「え、ええ……。何か困ったら……」
この青年に踏み込まないように、柘植野は歯切れの悪い返事をした。
「ありがとうございます! よろしくお願いします」
最後まで明るい表情で、柴田は隣の部屋に帰っていった。
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