【第一部完結】料理好きわんこ君は食レポ語彙力Lv.100のお隣さんに食べさせたいっ!

街田あんぐる

第一部 ご飯パトロン編

第1話 ラブホテルの不機嫌な猫

 男は薄く目を細めて、華奢きゃしゃな男に唇を近づけた。2人とも裸で、乱れたベッドに横になっている。

 色白な顔がキスから逃げるようにふいと横を向き、男のキスは空ぶった。


 男は笑って細いあごをつかみ、自分の方を向かせる。この男は名前を浅井という。

 華奢な男は諦めたように目を閉じて、キスを受け入れた。こちらは柘植野つげのという名前だ。


「んん……んむ……ちゅぱ……ぷは、はぁ、は」

「きもちい? 舌入れさせてよ」


 浅井の舌が薄い唇を舐めると、柘植野は目を伏せて口を薄く開けた。柘植野の顔にかかった髪の隙間から、期待に染まった頬が見える。


「んぅ……あぁん、ん、ん」


 浅井の舌が裏筋を執拗しつように舐め上げる。ラブホテルの室内につややかな声が響いた。


 2人の唇が、ちゅっとかすかな音を立てて離れる。

 浅井はそれ以上を求めない。散々楽しんだあとだからだ。


「ピロートークのつもり? 必要ないでしょ」


 そう言った柘植野は、冷めた目で浅井を見る。


「ピロートークじゃない。気まぐれ」

「それより通知をなんとかして。最中さいちゅうにピコピコ鳴ってうるさいったらない」

「んー? 通知は聞こえてたんだ? あんなにあえいでたのに」


 柘植野はイラっとして浅井をにらんだ。


「通知が聞こえてたか~、反省反省。次は通知が聞こえないくらいにイイコト、しちゃう?」

「しない」


 柘植野は浅井が伸ばした手をパシッとはたいて、ベッドの隅に逃げた。


「はいはい」


 浅井は全裸でスマホを取りに行って戻ってきた。柘植野から微妙に離れて寝転び、しばしスマホを触る。


「お。カワイイ。なあ、柘植野くんによくないお知らせ」

「なに?」

「おれ彼氏できちゃったわ」

「彼氏? 今?」


 柘植野の整った顔がこわばる。


「チャットで告白されたの。カワイイよな」

「なるほどね」


 浅井はスマホの画面を柘植野に突き出した。

 「付き合ってください」というメッセージに浅井が「いいよ」と返信している。

 柘植野は眉間にシワを寄せた。軽蔑の表情を隠さない。


「どんな人? 後輩?」

「営業部の1年後輩。ものすごい年下を手玉に取ってるわけじゃない」

「……まあ、なら」


 柘植野は「ものすごい年下じゃない」の言葉に、ふーっと長い息をついた。安心した様子だ。


 浅井はチャラいが、としの離れた若者をもてあそぶようなことはしない。

 だから柘植野は浅井を見放していない。浅井を見放せない、と言うべきか。


「でも、彼氏候補がいるなら、僕と関係を持つべきじゃない」


 柘植野は浅井を横目で睨む。浅井に「不機嫌な猫みたいだな」と思われていることを、柘植野は知らない。


「彼氏候補ねぇ。その点ではいつも意見が合わないな」


 浅井はニヤッと笑った。その表情に、柘植野はさらにイライラさせられる。

 浅井が柘植野の髪をぐしゃぐしゃとかき回す。

 柘植野は華奢な腕で浅井の手首を掴んだ。しかし、エリート営業マンらしく鍛えられた浅井には敵わない。


「やめてよ。僕には立場があるんだから。『セフレと浮気』なんて書かれたら……」


 言いながら柘植野は身体を起こした。浅井に背を向けて下着を探し、身につけた。


「それよ。お前、おれが今度こそカワイイ彼氏と長続きして、戻ってこなかったらどうすんの? 口の堅いセフレを探すの? ビッチな柘植野くん」


 浅井も服を拾い上げながら、柘植野をからかう。


「お前、僕がセックスしないと死ぬとでも思ってるの」

「ああ、思ってる」

「……」


 柘植野は返事をせずに、水色のストライプのシャツのボタンを留め、銀縁のメガネをかけた。

 そして財布から1万円札を出し、サイドテーブルに置いて、柘植野はラブホテルの部屋を出ていく。


「おい、1万もいらないだろ」

「ご祝儀」


 柘植野はそれだけ言って、ホテルのドアを閉めた。


 ガタつくエレベーターの中で、柘植野文渡つげの あやとは無意識に右耳を触っていた。ピアスホールがふさがってしこりになっている。

 柘植野は自分の仕草に気づいて、ハッと手を離した。


 もう塞がった穴。もう塞がったはずの傷。なのに——。


 浅井に乱された髪を整えて、右耳を髪で隠す。

 ホテルの外に出ると、3月初旬の空気は、深夜でもちょうどよく冷えていた。春が近い。


 最初に柘植野を「ビッチ」と呼んだのは、あの男だった。


 ——欲しがってみろよ、ビッチなガキが!


 あのとき、僕は18歳だった。大学に入ったばかりだった。

 あのひとは30歳だった。


 そこまで考えて、柘植野は気分が悪くなった。ガードレールのわきでしゃがみ込む。


 僕はあのひとと同じことはしない。浅井にも、年下の人の心を弄ぶようなことはさせない。

 僕はあのひととは違う。若い人の人生に踏み込むような真似は、絶対にしない。


「あの、大丈夫ですか」


 声をかけられて柘植野が顔を上げると、バニーガール姿にコートを羽織った客引きの女性だった。わざわざ声をかけに来てくれたのだ。


「大丈夫です。ありがとうございます」


 柘植野はゆっくり立ち上がった。

 女性は安心した顔をして、店の前に駆け戻っていった。


 まだ人通りがあるとはいえ、この時間からバニークラブに入ろうという客はあまりいないだろう。そう考えながら、柘植野はコンビニに寄った。


「あの、差し入れです。僕はゲイだから、客にはなれないんだけど」


 コンビニから出た柘植野は、さっきのバニーガールにカイロとあたたかいお茶を渡す。

 彼女の薄いコートの下は思い切り肌が露出した格好で、派手なリップを塗っていてなお、唇が青くなっているのが分かった。


「ありがとうございます……!」

「ご迷惑でなければ」

「ありがたいです!」

「こちらこそ」


 彼女はもう少し話したそうだった。しかし柘植野は気づかないフリをした。


 彼女が本当に欲しいのは客で、カイロとお茶じゃない。

 でも彼女がしてくれたのは、駆け寄って心配しただけだから——柘植野は「だけ」という言い方に強い違和感を覚えた——僕は彼女がしてくれただけの親切を彼女に返せただろうか?


 分からないままトレンチコートのポケットに手を入れて、夜の繁華街に歩き出した。

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