第40話 夢
家に帰っても、風呂に入っても、心が張り詰めて落ち着かなかった。食事は喉を通るはずもなく、何も手につかない。時計の秒針がすすむのをただじっと見ていることしかできなかった。
手術終了予定時間から二時間が過ぎた頃、波瑠の父親から「今日の手術は成功した」と連絡があった。それを聞いて、緊張の糸が切れたようにベッドに倒れこむ。
首を回して、もう一度時計を確認した。あと一時間で俺は眠りについてしまう。体を起こし、バッグの中から取り出した封筒をハサミで丁寧に開けた。
折りたたまれた便箋を開く。初めてもらった時と同じ、右肩上がりの少し癖のある文字が並んでいた。
『茜君へ
君に想いを伝えようと筆を執ったものの、何から伝えればいいのか、たくさんありすぎてまとまりません。だから、思いつくままに書くことを許してください。
茜君を病室の窓から見ていた頃、私の心はもう死んでいるみたいでした。何のために自分が息をしているのかも分からなくて、明日なんて来なくていいとさえ思っていました。そんな毎日の中で、茜君の存在は「人生に失望した同志」みたいでした。名前もまだ知らない君の姿を見られた日は、少しだけ心が軽くなりました。
茜君の後を追いかけて病室を飛び出したのは、自分の体のどこにそんな活力があったのかと疑問に思うくらい、思いがけない事でした。君と出会うことでこんな毎日が変わってしまうような、そんな予感が体を巡っていたことをよく覚えています。
予感は大当たり。茜君に出会ってからの毎日は色鮮やかに私の心を震わせてくれました。たくさん連れまわして、わがままを言ってごめんなさい。茜君といるときだけが、本当にそうありたいと思う自分でいられました。
私は失ってしまった、未来への希望を再び握りしめました。生きたい。君と生きたい。その想いと家族との間で揺れ動いていた私を掬い上げてくれたのも、また君でした。
私は茜君に何を返したらいいんだろうって、ずっと考えていました。それでやっと思いついたんです。
夜、私の夢を見てください。
前に「誰かの夢を見なくて済むように、亡くなったお母さんの夢を毎晩見ている」と言っていたのを覚えていました。家族の最期を毎晩夢に見るのは苦しいでしょう。それならその役は私にやらせてくれませんか。
君が毎晩苦しまなくて済むように、私の最期は綺麗なものにしてみせる。眠っているみたいに、安らかな顔で、君と出会えて幸せだったと信じてもらえるような、そんな最期。
でも君に夢を見てもらうことは、私の望みでもあるの。私のことを覚えていてほしい。頭の片隅に私を置いてほしい。自分がこんな風に面倒な女だって、初めて知ったよ。
手術の日にちゃんと口で伝えられる自信がないから、ここに書いておくね。
茜君、好きです。大好きです。
私と一緒にいてくれてありがとう。私を救ってくれてありがとう。不器用だけど優しくて、ずっと側にいたいと思える君のことが大好き。私の世界が終わるその瞬間まで、君のことを想っていさせて。
どうか君が、穏やかな眠りにつけますように。
波瑠より』
途中から目の前が滲んで読めなくなった。目元を拭って何度も読み返す。
これは波瑠の遺書だと分かった。どうなるか分からない手術の結果を見越して、俺に最期の言葉を残そうとしてくれていた。
出会えて幸せだったのも、救われたのも、俺の方がきっとそうだよ。好きだって、言い逃げはやめてくれよ。どうして俺はちゃんと言葉にして伝えなかったんだろう。
手紙をテーブルの上に置いて、俺はベッドに横になった。電気を消し、瞼を閉じると笑顔の波瑠が浮かぶ。明日会ったら言いたいことが山ほどあるよ。今度は俺が伝える番だから、最後まで聞いてほしい。不思議なくらい、不安はひとかけらもなかった。
今夜、君の夢が見られますように。
そのことだけを祈って眠りについた。
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