第39話 おやすみなさい

「望み通り、デート代はちゃんと払うよ。後でやっぱり支払いが足りないとか文句言うなよ」


 波瑠の望みは全て叶えると言ったんだ。どんな夢を見たとしても、受け止めてみせる。

 俺の言葉に波瑠は振り向いて笑った。


「私にとってはこれ以上ない価値があるんだよ。文句なんてあるはずない」

 そう言うと、波瑠はコートのポケットに手を突っ込んだ。

「じゃあ支払いも成立したということで、私を買ってくれた茜君にはプレゼントがあります」

 波瑠が俺に差し出したのは水色の封筒だった。これが前に言っていた「準備」なんだろうか。

「今夜、寝る前に読んでね」

「ああ、そうするよ」

 封筒は大切にバッグへしまった。


 波瑠は再び街の景色の方へ頭を戻す。会話が途切れる時間も惜しくて、明るい話題を探した。


「病気が治ったら、やりたいことはあるか?」

「それはもういっぱいあるよ」

「例えば?」

「まずは日本で一番の桜の名所に行きたい!」

「日本で一番って、調べたらいろんな場所が出てきそうだな」

「じゃあ出てきたところ全部行こうよ」

「全部?」

「うん。桜前線と一緒に私達も移動するの」

「それはまた大がかりな」

「でも楽しそうでしょ?」

「まあそうだな」

「それで、夏は水着を新しく買って海に行きたい」

「海で泳いだのなんて遠い昔だな」

「茜君の分も私が選んであげるよ」

「ならそうしてもらおうか」

「秋は紅葉を見ながら一緒に本を読むの」

「家で読むのと違って面白いかもな」

「冬は雪山に行ってスノーボードをしてみたい。ね、一緒に習おうよ」

「それも楽しそうだな」


 四季を通して波瑠と一緒に過ごす光景が自然に想像できた。きっとそれは今までの人生で一番幸せで、輝きにあふれた日々になるんだろう。


「やりたいことは言い尽くせないくらいたっくさんあるんだよ。でもね、一番は茜君とずっと一緒にいたい。茜君が隣にいれば、きっとなんだって楽しいよ」

 波瑠は振り向いて俺を見上げた。


「毎晩私の夢を見てよ。その瞳に私をたくさん映して。寝ても覚めても、私が君を幸せにしてみせるから」


 その言葉は「愛してる」なんかより俺にとってはずっと価値のあるものだった。


「俺の方こそ、波瑠を幸せにするよ」

「えへへ、私達ってやっぱり似たもの同士なんだね」

 俺は腕時計にちらっと目をやった。医者に許された時間はあと少し。

「そろそろ病室に戻ろう。遅刻するわけにはいかないからな」

 車いすに手をかけて、ゆっくりと半回転させる。病室に着いてしまったらもう波瑠とは手術が終わるまで会えない。


 波瑠の両親からは病院内で一緒に待機することを提案されたが、それは断った。強い絆で結ばれた家族の空気を俺が邪魔することはさすがに悪いと思った。不安がないわけじゃない。明日の手術終了まできっと生きた心地がしないんだろう。それでも俺は待つことしかできない。もし俺に名医の技術があったらなんて身の丈に合わないことを思ったりもしたけど、そうだったとしてもきっと波瑠の体にメスを入れるなんてできるわけがない。どのみち俺は手術成功の連絡が来るのを待つしかないんだ。

 波瑠が車いすでよかった。椅子を押す俺の顔がどんなに不細工になっていても、波瑠には気づかれずに済むから。


「ねえ、茜君」

 屋上の出口の手前で波瑠は言った。

「どうした?」

 車いすを止めると、波瑠の口からためらうような息がもれる。

「あのね……大丈夫って、言って」

 その掠れた声に胸が張り裂けそうになった。


 波瑠の隣にしゃがみ込んで、膝の上でゆるく握られたその手を包む。触れた手は冷たくなっていた。


「大丈夫、大丈夫……うまくいくよ。明日、手術が終わって目が覚めたら、さっき言ってたやりたいこと、全部できるから」

 うつむいていた波瑠はゆっくりと俺の方を向いた。目元は赤くなって、今にも泣きだしてしまいそうだ。そんな顔のまま俺に笑って見せた。

「ごめんね……急に不安になっちゃって。茜君にそう言ってもらえると、本当に大丈夫な気がしてくるよ」

「波瑠が安心できるまで、何回でも言ってやるから」


 波瑠に触れる手に少し力を籠める。少しでも早く俺の体温が波瑠を温めるといい。

 別に神様なんて信じていないけど、今だけはどうか神様、彼女に幸せで明るい未来をください。俺なら何でもしますから。


「うん、ありがとう……もう大丈夫。行こう」

「分かった」

 俺は再び車いすを押した。




 医者と家族が待つ病室に戻る頃には、波瑠はいつもの明るい表情に戻っていた。病室の扉を開ける前に一度立ち止まる。この扉を開けたら、もう波瑠とは会えない。

 ここからは家族との時間だ。俺は邪魔してはいけない。最後に波瑠を独り占めする時間をもらえただけ幸せなことだ。

 波瑠は俺の方を振り向いた。俺を映す綺麗な瞳を、花が咲いたようなその微笑みを、頭に焼き付ける。


「じゃあ茜君、行ってくるね」

「ああ、また明日な」

「うん。おやすみなさい」

「おやすみ……波瑠」

 波瑠は扉を開けて病室に入って行く。俺は背を向けた。

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