第38話 私にちょうだい

 そして、手術本番の日を迎えた。


「わぁ……ひんやりして、もうすっかり冬の空気だね」

 病院の屋上に出た波瑠は言った。

「……そうだな」


 俺達は医者に許可をもらって、手術当日の朝に二人で会うことができた。波瑠は昨日から手術に向けた投薬が始まっているため、万が一に備えて車いすに座っている。

 車いすを柵の手前につけると、広く続く街の景色が良く見えた。


「波瑠、寒くないか?」

 病衣にコートを羽織った姿の波瑠に声をかける。

「うん、大丈夫だよ。ありがとう」

 振り向いて俺に微笑む顔を見て、胸がざわつく。


 これから波瑠は二日間にわたって大掛かりな手術を受けることになる。もしかしたら、波瑠と話すのはこれが最後になってしまうかもしれない……いや、そんなことは考えるな。波瑠を不安にさせるなよ。


「春に出会ってから、随分といろんなことがあったよな」


 始まりは歩道橋の上。不意に飛び降りたくなった俺に波瑠が声をかけた。「デートしよう」とか言って強引に俺の手を引く。その手を振りほどかなくて、本当によかった。


「最初の頃は冷凍食品のレイ君だったもんね。ふふっ、懐かしいなぁ……」

「ハルっていうのが本当の名前だなんて騙されたよ。季節が春だからって、俺と同じくらい安直な理由だと思ってた」

「騙されるように言ったんだもん。それはそうだよ」

「波瑠って策士なところがあるよな」

「ふふっ、誉め言葉として受け取っておくよ」

「それに、本当のデートにならないように金を払えっていうのも、なかなかすごい提案だよな」

「茜君、最初はびっくりしてたけど、思ったよりもよりすんなり受け入れてくれたよね?」

「まあ、そうかもな……」


 それは波瑠が金目的なんじゃないかってがっかりしていたところにそんな提案をされて拍子抜けしたから。初めて会ったあの日から、波瑠の言動に一喜一憂していたなんてそんなことは言えない。


「あーあ、今日のデートは高くつくなぁ。なんたって、私を好きに連れまわしたんだからね」

 わざとらしい言い方に思わず吹き出した。

「ふふっ、何だよそれ」

「だからね、今日は百円なんかよりもーっと価値のあるものが欲しいの」

「おう、何でもくれてやるよ」


 君の欲しいものなら、何でも。


「えへへ、じゃあ、今夜の君の夢を私にちょうだい」

「え……?」


 思いもしない提案に言葉が詰まった。


「今夜、私の夢を見てほしいの。夢の中でも私のことを見ててくれたら、すっごく幸せだろうなって」


 俺だって、毎晩好きな人のことを想って眠りにつきたい。夢でも好きな人に会いたい。でも、それが出来ないことは波瑠も知っているはずだ。


「……分かってるよな、俺は他人の不幸しか見ないって」

「もちろん分かってるよ。誰かの不幸を見るのはやっぱり怖い?」

「……怖いよ」


 誰かの不幸なんかじゃなくて、人生で一番大切な人の不幸を見るのが怖い。夏の河川敷で波瑠の夢を見た時だって、息が詰まりそうなほど苦しかった。

 俺が夢で見た出来事は必ず起こる。もし波瑠が手術中に死ぬ夢を見てしまったら? 今度は、自転車に轢かれるのを回避できた時みたいにはいかない。波瑠がこれから死ぬ未来が分かっているのに、二日目の手術に向かうのを黙って見ていることしかできない。そんなの、想像しただけで吐きそうになる。きっと身体が千切れるほど苦しくて、一生その夢を思い出すんだろう。


「大丈夫だよ」

 波瑠の言葉で吐き気が止まった。


「きっと大丈夫。茜君は私の些細な失敗を夢に見て、明日の手術が終わったら『馬鹿だな』って笑いに来るんだよ」

 波瑠がそう言うと、本当にそうなるような気がして困る。取るに足らないほどの不幸を夢に見て、一緒に笑いあう未来があるんじゃないかと錯覚する。実際はどんな波瑠の不幸を見てしまうかも分からないのに。


「馬鹿だななんて、言わないよ……」

「茜君は優しいからそんなこと言わないか。それでね、もし私が二度と目を覚まさなくなる夢を見たら……」

 その言葉に息が止まりそうになった。

「その時は、本当なら見られるはずじゃなかった私の死に際を、茜君に見守ってもらえたってことにならないかな。そうは思わない?」


 ずっと呪ってきたこの体質を、君はそんな風に言ってくれるのか。まるでこの体質のおかげで、君と深く繋がっていられるみたいな。波瑠と出会ってから、もう何度も俺は救われてしまった。


「波瑠は強くて格好良くて、ほんと憧れるよ」

「茜君には格好悪いところもたくさん見せちゃったと思うんだけど」 

 波瑠は拗ねたように言った。

「そんなことないよ。波瑠が自分で格好悪いと思っているところも全部、波瑠が眩しく生きている証だよ」

 浜辺で泣いていたのも、病室での姿も、周囲への思いやりと自分の気持ちの狭間で苦しんだ結果だ。そんな風に一生懸命に生きている波瑠が格好悪いはずがない。


 だから俺も覚悟を決めようと思った。

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