第33話 私のことは忘れて

 波瑠は俺の身体から降りて、隣に座った。

「前に病気だって話したでしょ。前例がまだ数件しかない脳の病気なの」

「え……」

「小学生の頃から急に熱を出して倒れたりしてて、その時は小児がかかるような別の病気じゃないかって言われてたんだ。でも中学生になっても同じ症状が出るから都会の大きな病院で見てもらうことになって、そこで初めて本当の病名が分かったの」

 


 病名が判明して、波瑠は入院することになった。波瑠を診てくれる病院へ通えるように、家族は田舎から引っ越したのだという。体は周りの子と同じように動くのに、いつ起こるか分からない発作のせいで学校に通うことが出来ない。数少ない症例を見ると、歳を重ねるごとに発作の頻度は上がり、症状も重くなっていくらしい。


 初めは治療に前向きだった。まだ効果的な治療法は見つかっていないけど、効果がありそうなことは全て試した。頑張っていればいつか病気が治るかもしれない。そうしたらまたみんなと同じように学校へ行ける。そう思って学校の勉強も続けていた。


 でも、一年、二年と経っても病気は良くならなかった。症例と同じように年々発作が重くなっている。それでもまだ前と同じように暮らすことを諦めてはいなかった。だから憧れの可愛いブレザーが着られる進学校を目指して受験勉強にも力を入れた。


 模試ではA判定を取れるようになった。でも、本番の試験を受けることは出来なかった。発作後の朦朧とする頭で思った、「もうずっとこのままなんじゃないか」と。


 一度折れてしまった心はとても脆かった。両親が手を握って「頑張って」と励ましてくれることも、妹が入院している波瑠を楽しませようと学校であった面白い話を聞かせてくれるのも、全部辛くなってしまった。


 だから病院を抜け出すようになった。検査のない日を見計らって、回診と家族のお見舞いの時間には戻ってくるようにして。



「実はね、半年くらい前にこの病気に対する新しい手術を受けないかって話があったの。前例はないし、失敗して手術中に命を落とすかもしれない。でも病気が完治する可能性のある唯一の希望。私は断ったの。生きる希望なんてもうなかったし、今までの治療費以上に高額な費用が掛かるからね。家族のみんなは私の耳に入らないようにしてたけど、妹が留学したいと思ってるの、私はとっくに分かってた。私のせいで家族が会社や学校を変えたのだって苦しかったのに、これ以上、みんなの負担に足りたくなかったの」


 波瑠は俯いた。


「それなのにね、最近ダメなの。そんな博打みたいな手術でも受けたいって思ってきた。病院を抜け出すんじゃなくって、普通に外を歩きたい。普通の女の子みたいに好きな人とデートしたい。もっとずっと先の未来も一緒にいたい。でもね、この前のデートで妹から電話がかかってきて、この夢みたいに幸せな時間は本当に夢なんだって気づいちゃった。茜君がいないと息が詰まって苦しいのに、茜君といると生きたくて仕方ないの。でも私は、そんなこと思ったらだめなんだよ……」


 そう言うと、波瑠は俺の方を向いた。綺麗な瞳は悲しく揺れている。


「だからもう全部終わりにしたかったの。最後に最っ高のデートをして、それでもう満足したってするつもりだったの。これで分かったでしょ。茜君と会うのはこれで終わり。私のことは忘れて。私も忘れるようにするから……もうこれ以上、苦しい思いをしたくないの」


 俺が知らなかった波瑠の話は思った以上に重く苦しいものだった。波瑠が言っていた通り、ガキの俺には病気を治すような技術も、波瑠の心を癒す包容力もなくて、俺自身にはどうしてやることもできない。


 でも、そんな話の中にも希望は見えた。波瑠のためにたった一つだけ、俺が出来ること。


「そうか、分かった」

 俺の言葉に波瑠は傷ついたような顔をした。ごめん、今の俺にはこれしか言えない。まだ出来るかどうか不確定な状態で、安易な言葉を使いたくはなかった。


 波瑠は体に付いた砂を払い落として立ち上がった。そして悲しそうに微笑む。


「今までありがとう。バイバイ。幸せに……」

「だめだ」

「え……?」

 俺は着ていたカーディガンを脱いで、波瑠の肩にかけた。

「俺達はまだデートの途中だろ。最後まで送らせろよ」

「でも、その……」

 波瑠は困ったように目を泳がせた。

「嫌って言うなら、抱きかかえてでも連れて帰る」

「……わ、分かった」

 波瑠は渋々といった様子で後ろをついてきた。



 浜辺から移動して電車に乗っても、波瑠はずっと黙ったままだった。話すことを拒絶するような空気さえ感じた。地下鉄に乗り換えると、隣に座る波瑠の頭はゆらゆらと揺れ始め、俺の肩にもたれて眠っていた。

 波瑠のことを「人生楽しそうなやつ」だなんて思っていた自分は本当に馬鹿みたいだ。苦しい思いを抱えたまま、波瑠はあんなに眩しい笑顔を見せていたなんて……



 もうすぐ待ち合わせた駅に着く。起こしてやろうと手を伸ばしたとき、波瑠は眠たそうに目を開いた。

「あれ、私……寝てたの?」

「ああ。もう駅に着くぞ」

「……そっか」


 電車は緩やかに駅へ止まった。先に降りた波瑠は、くるっと俺の方を振り向いた。


「それじゃあ本当にここでお別れしよう」

「病院に戻るんだろ? それならそこまで……」

「ごめん。茜君には見られたくないの」

「……分かった」

 そう言ってバッグの中を漁る。そして目的のものを手の中に握って、波瑠に差し出した。

「ほら、これ」

「何?」

 開いた手の上に乗ったソレを見て、波瑠は悲しそうに笑った。

「最後くらい、本当のデートにしてくれたっていいのに」

 波瑠は百円玉を受け取ると、俺に背を向けて歩き出した。


 波瑠の背中が見えなくなって、スマホに手をかけた。二つしか登録されていない電話番号のうちの一つに発信する。自分から電話を掛けるのは初めてかもしれない。

『茜から電話をかけてくるなんて珍しいな。どうした?』

『話があるんだ。うちに来てくれないか』

 電話の向こうでは考えるような空気があった。

『分かった。これから向かう』

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