第32話 大丈夫。じっとしてて
服屋を出ると、日は傾き始めていた。もうこんなに日が短くなっていたのか。
「寒くないか?」
隣を歩く波瑠に目を向ける。薄い生地のワンピースは今の季節では肌寒そうに見えた。
「ありがとう。でも大丈夫だよ」
「そうか、ならいいけど」
今度は地上の電車に乗った。電車を降り、駅の出口に近づくにつれて懐かしいような匂いがした。
「ここだよ。今日はここに来たかったの」
駅を出ると、目の前には夕焼けに染まる海が広がっていた。
波瑠は弾むように階段で砂浜へ降りる。俺も後に続いた。秋の海には俺達の他に誰もいなかった。
「海、好きなんだよね。でも実際に来たのはもう何年ぶりかな」
そう言って穏やかな表情で海を見つめていた。秋の海は夏のような活気も眩しさもなく、ただ寄せては返す波音が物悲しくも感じた。
「俺も前来たのは思い出せないくらい昔だな」
その時、波瑠は突然ブーツを脱ぎ始めた。
「おい、何して……」
「せっかくここまで来たんだもん、入らないと損だよ」
そう言いながらも靴下を脱いで、水際へ向かっていく。スカートの裾をたくし上げて、パシャパシャと海に入った。
「やっぱり結構冷たいんだね」
そう言って波打ち際を跳ねまわる波瑠は、服装も相まって人魚姫のように見えた。そんなことを思いつくなんて、俺の思考は案外メルヘンなのかもしれない。
波瑠は俺の方を振り向いた。
「茜君もこっちに来る?」
もうカーディガンを着るような季節だ。入りたくなる気持ちは分からなくもないけど、後で「やっぱり寒い」って言うに決まってる。俺はすぐ動けるようにここで待っていたほうがいいだろう。
「いや、いい」
俺の言葉に波瑠は少し俯いた。
「そっか、まあそうだよね……これで茜君と行きたかったところは全部行けたよ。ありがとう」
「おう、それはよかった」
「私はもう少しここで遊んでから帰るから、茜君は先に帰ってていいよ」
「は……?」
言っている意味が分からなくて体が固まった。
「心配しなくても大丈夫。ここまで茜君を連れてきたのは私なんだから、ちゃんと一人で帰れるよ。じゃあね」
そう言って波瑠は俺に背を向けると、更に海を進んでいく。その様子にいつもの無邪気さとは違う、簡単に崩れてしまうような危うさを感じた。このまま目を離したら、海の中に消えていってしまう気がした。
「波瑠!」
やっと動いた足を必死に動かして波瑠の背中を追う。服が濡れるのも無視して、膝上まで水に浸かった波瑠の腕を掴んだ。振り向いた波瑠は苦しそうな顔をしていた。
「何してるんだよ!」
波瑠は目を逸らした。
「何って、私はただ遊んでるだけだよ」
「だったら、なんでそんな辛そうな顔してんだよ!」
俺の言葉に波瑠は俯いた。強引に浜辺まで引っ張る。抵抗はしなかった。
浜辺まで引き上げても、波瑠は俯いたままだった。
「なあ、やっぱり今日の波瑠はおかしいよ。なんかあったんなら話して……」
「話したって何にも変わんないよ。だってそうでしょ? 何の力もない子供の私達には何も変えられない」
そう吐き捨てるように言った。自暴自棄になった波瑠の様子が苦しくて胸が痛む。
「それはそうかもしれないけど! 俺は波瑠の力になりたいんだよ!」
どうにかしてやりたい。俺に出来ることならなんだってしたい。
俺の言葉に波瑠は顔を上げた。そして俺の方に一歩近づく。
「それなら私とキスしようよ。嫌なこと全部忘れられるようなやつ」
目の前で俺を見据える波瑠は知らない人みたいだった。
なんだか怖くなって一歩下がると、枝につまづいて尻もちをついた。波瑠は俺の上に馬乗りになる。
「大丈夫。じっとしてて」
そう言って俺の顔の横に手をつき、段々と体を寄せる。
「だめだ!」
俺は波瑠の肩を掴んで動きを止めた。いま俺が流されてしまったら、きっとこのキスを波瑠は後悔する。そんなのは耐えられない。
波瑠は驚いたように目を開いた後、また苦しそうな顔になった。
「どうしてダメなの!? 私のしたいこと、何でも叶えてくれるって言ったのに!」
「……ごめん」
「もう私、どうしたらいいのか、分かんないよ……」
波瑠の瞳から大粒の涙が溢れて、ぽたぽたと俺の服を濡らした。こんな風に弱々しい波瑠を見たのは初めてだった。
俺は起き上がって、その小さな体を抱きしめた。
「波瑠、大丈夫だから」
「うっ……ぐぅ……っ!」
腕の中でその体は震えていた。一人きりでこんなに張り詰めるまで抱え込んでいたなんて分からなかった。俺がもっと早く気が付いていればこんなに苦しまなくて済んだのかもしれないのに。
俺は波瑠が泣き止むまで背中をさすっていた。
「なあ、やっぱり何があったのか話してくれよ。波瑠の本当の望みは何でも叶えたいって、それは嘘じゃないから」
「……うん」
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