第34話 別れ

 家に帰って目的の本を探していると、本を引き抜いた拍子にカサッと何かが落ちた。


「これ……」

 拾い上げたそれは、波瑠の身辺調査結果が入った封筒だった。


 ベッドに腰掛けて中の紙を取り出す。そこには、両親と妹の四人家族であることや、病気のこと、入院歴などが書かれていた。さっき波瑠から聞いた内容と同じだ。


 入院先の病院の名前を見て、一瞬息が止まった。そこは俺が毎月通っている健診センターの隣に立つ大学病院だったからだ。そんな偶然があるのだろうか。もしかすると、知らず知らずにうちに俺達はすれ違っていたのかもしれない。


 一枚紙をめくると、「補足事項」という項目に手術のことが書かれていた。そこに俺の知りたい内容もあった。


 その時、玄関の扉が開く音がした。咄嗟に調査結果をベッドの中に隠す。

「よお、茜」

 やってきた圭は居間にドカッと座った。

「何だよ、今日は急に改まって」

「圭に頼みがあるんだ……俺に金を貸してほしい」

「いくら必要なんだ?」

「えっと……」


 口にしたこともない金額に思わず言い淀んだ。調査結果の補足事項に書かれていた波瑠の手術費用は普段目にするような数字とは桁がいくつも違っていた。俺が波瑠のためにしてやれることは手術費用を肩代わりするくらいだ。圭ならこんな桁外れな金額でも用意できるようなツテがあると踏んでいた。金を借りて波瑠が手術を受けることが出来るなら、その後俺がどうなっても構わなかった。


「まあ、いい。ただな茜、俺から金を借りるってことは分かってるんだろうな? 返せる算段はあるのか?」

 圭の鋭い眼光に怯みそうになる。でも今日だけはダメだ。拳を握りしめた。


「今の仕事の受ける件数を増やす。それに加えて昼間の仕事もしようと思ってる。俺の学歴じゃ雇ってもらえないだろうから、まずは勉強をして一年後に高卒認定を取ろうと思う」

 圭が持ってきた本の中に、高校の参考書や就業関係の本があったはずだ。大変だとは思うけど、無謀ではないと信じたい。

「それで普通の仕事に就けたら、今の仕事は辞めたい」

 これはいつもと同じ言葉なんかじゃない。口を挟まれる前に言葉を続けた。

「今の仕事より稼げないのは分かってる。きっと借りた金を返すまでに何十年もかかると思う。自分勝手なことを言ってるのも分かってる。でも! 俺は太陽の下で胸を張って歩いていけるような生き方をしたいんだよ!」


 俺も綺麗な人間になりたかった。宝石みたいに綺麗で眩しい君の側に見合う人間になりたい。

 

 言い切って心臓がバクバクと鳴る。ここまで圭に言いたいことを言ったのは初めてだった。

「……そうか」

 それだけ言うと、圭はバッグの中を漁って何かをこっちに投げてきた。

「うわ!?」

 慌ててキャッチすると、それは名前を聞いたことのある銀行の通帳だった。

「その口座、お前の稼ぎから仲介料で天引きした分が入ってるんだ。茜がいつかもっとデカい仕事をするときの活動資金にしようと思ってたんだが、仕事辞めるつもりならもういらねぇな」

 中をめくると、見たこともないような桁の数字が書かれていた。

「やる気ないならさっさとやめちまえよ。これは手切れ金だ。勝手にしろ」

 これだけあれば、波瑠の手術費を払っても俺が高卒認定試験を受けるまで生活していくには十分すぎるほどだ。

 圭は立ち上がって、背を向けた。

「この家は俺の名義で借りてるから、早いうちに引っ越した方がいい」

 そう言って部屋を出て行く。その背中を見て、急に昔のことを思い出した。


 葬儀場を出ると、外の眩しさに目がくらんだ。その間にも、前を歩く背中は遠ざかっていく。

『おじさん、あの……』

 俺の声に振り向いたその人は顔をしかめた。

『おじさんって……いいか、俺のことは圭って呼べ。分かったな』

『分かった……けい、ありがとう』

『礼なんていらねえよ』


「圭……今までありがとう」

 圭とはもう会えない予感がした。歪な関係だったけど、もしかすると俺は大切にされていたのかもしれないと、そう思った。

 圭の背中は廊下の暗闇に溶けた。

「……二度とその面、見せんじゃねえぞ」

 それだけ言い残して、玄関を出て行く音が聞こえた。

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