第21話
「でも本当にごめんね。ふなっちが居なかったら私詰んでたよ」
「大げさですって。鍵問題が解決したあとも『なんとかなる』って言ってたじゃないですか」
「それはそれ。なんとかならなかったし!」
「あ、開き直った」
エレベーターを降りて1階に出る。蛍からすれば、さっき通った道を戻っている。マンション前はなかなか狭い道であるが、ある程度車の通りもある。しかし、彼女の目指す不動産屋の支店は、多少入り組んだ場所にあった。薫子が蛍を頼ったのは、正解だと言えた。
「この時期に引っ越しって珍しいですよね」
「え、そう? 4月は普通じゃない?」
「そうじゃなくて、川下さんですよ」
「あぁ私?」
新生活を始める人が多い4月。引っ越し自体は何も珍しくはない。むしろ普通で、引っ越し屋を押さえることも難しい時期である。一般的には。
しかし薫子は大学4年生。新生活を始めるとは想像しづらかった。引っ越す上で特別な理由があるだろうか――。先ほどは飲み込んだ疑問も、今なら答えてくれる気がした。
「別に大した理由じゃないよ。卒業したら都内で働くつもりだし、就職してから引っ越しってなると、色々とバタつくだろうと思って」
「じゃあ事前準備みたいな感じですか?」
「そうそう。難しい言葉知ってるね」
「中学生でも分かる言葉ですよ」
「あはは」
薫子は呑気に笑う。確かに幼いところもあるが、話し方や考え方は年相応に思えた。彼は小さくため息をついて、会話の続きを模索する。
「都内の人なんですか?」
「ううん。出身は埼玉」
「大学は都内で?」
「そう。早田大だよ」
「マジですか!?」
蛍が露骨に驚いてみせると、薫子は立ち止まって彼の顔をジッと見つめる。
「どういう意味かな?」
「あぁいや……すごく優秀なんだなと」
「そうだろそうだろー! もっと褒めても良いんだよ?」
「指定校っすか?」
「そんな学歴厨みたいなこと言わないでよ。一般勢だもん」
「し、失礼しました……」
それには薫子も誇りを抱いているようで、ほんのりと語気が強まっていた。それを察知した蛍が素直に謝ると、それ以上は何も言わなかった。
「引っ越す前はどこに?」
「実家だよ。通えない距離じゃなかったから」
「一人暮らしかぁ。良いですね」
「どうして決めつけるの? 同棲かもしれないじゃん」
「そうなんですか?」
「……そんな目で見ないで」
言い出したのはそっちだろう。嫌味の一つや二つ言いたい気分だったが、気を遣った彼は飲み込む。余計な地雷を踏み抜いて気まずくなるのも面倒であった。
薫子は身長が150センチで非常に小柄であった。背の高い蛍と並んで歩くと、後ろ姿は親子に見えなくもない。彼女はそれがコンプレックスであったが、大学生にもなれば『個性』と考えるようになった。
「ふなっちは彼女とかいないの?」
藪から棒に何を言い出すのだろうか。彼は戸惑いながらも、隠す理由もない。素直に返答する。
「いないですよ」
「どれぐらい?」
「生まれてからずっとです」
「嘘だぁ」
「本当ですって」
「……マジ?」
「マジです」
薫子が彼の顔を見上げる。彼女から見ても顔立ちは非常に整っていて、背もすらりと天まで届く勢い。モテる要素をふんだんに含んでいるにもかかわらず、一度も彼女が出来たことないなんて抜かした。
「どうして? 高校生にもなれば恋愛したくてたまらないんじゃない?」
「まあ……でも好きな人もいないし」
「とりあえず付き合ってみるとかないの?」
「周りではありますけど」
「ふなっちは?」
「面倒なので嫌です」
「あちゃー」
薫子は同情した。彼は中々に拗らせている。恋愛をしたことがなさ過ぎて、純粋なままにこの青春時代を生きている。普通に考えて、この顔を女子たちが放っておくはずがなかった。
そして彼女のその予想は的中している。現に栗野めぐみには好意を寄せられ、紅林梓紗や黒澤芙実といった美少女たちからも一目置かれている。彼が知らないだけで、もうすでに青春の渦に巻き込まれているのである。
「恋愛はした方が良いよ。人の感情を考えるきっかけにもできるし」
「勉強よりも?」
「何事もバランス。せっかくなら楽しまないと損だよ? むしろ恋愛しよう!」
「サッカーしようみたいなテンションで言わないでくださいよ」
「あはは。ふなっちって面白いよねー」
とても早田大生の発言とは思えないが、思いのほかそうなのかもしれない、なんて彼は思った。車のタイヤだって、空気を詰め込みすぎればパンクする。一定のところで息抜きをしなければ、真の目標を叶えることはできないのである。
「誰か良い子いないの? お姉さんがアドバイスしてあげるよ」
いない――。彼は即座に否定しようと考えたが、脳内に浮かぶ数人のシルエット。
栗野めぐみ、黒澤芙実、紅林梓紗――。ここ数日は彼女たちを中心に日常が過ぎていることに気がついた。久しくクラスの男子と話していない。
「いないですけど、ここ数日は女子とばっかり話してますね」
「うわなにそれ。それはそれでキモいんですけど」
「助けてあげたのに何でディスられないといけないんですかね?」
「だって女好きのやることだよそれ。もしかしてヤるだけ?」
「断固として違いますから!」
彼の置かれた立場は非常に
「ほ、ほら! 着きましたよ」
「ありがと。助かったよ」
「いえ。帰りは大丈夫っすよね?」
「そう見える? 話に夢中で周り全く見てないよ?」
「分かりましたよもう」
クスクスと微笑んで、薫子は店内に足を踏み入れた。鍵を受け取り忘れて無くしたと騒いだ前代未聞の顧客。だが彼と話ながら来たおかげで、彼女の心にもすっかりゆとりが生まれていた。
スタッフも苦笑いを浮かべてはいたが、プロの対応であった。賃貸における重要事項を一通り説明した後、対応した女性スタッフが問いかける。
「ご入居は川下様お一人でよろしかったですよね?」
薫子は疑問に思ったが、素直に答える。
「はいそうですけど……」
「失礼いたしました。あの……」
女性の視線の先には、店の前で待っている蛍の姿があった。
店内は外から見えるようにガラス張りになっていて、スタッフたちは仲よさそうに歩いてくる二人を見ていたのだ。一人での入居で契約を結んだため、追加となると色々と手続きが必要になる。
「あ、あぁ彼は違います。その、付き添いなので」
慌てて否定すると、スタッフは安心したように優しく笑った。
一方の薫子は、焦りと言うより動揺していた。いないはずの恋人のように見られたこと。その事実が胸をチクチク刺してくる。全然何も思っていないのに。
そして同時に、自身も久しく恋愛をしていないと、痛感したのである。
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ヒロインはみんな可愛い。
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